そば屋の因縁
28日(木)22:57で水星逆行終了。水星が順行に戻る。
だが、28日から彼女みきっぺの働く蕎麦屋は6連勤。結構厳しい6連勤。彼女は長年働いていたスーパーを辞めて、その後紆余曲折あり蕎麦屋で働くことになった。
実はその昔、僕は蕎麦屋でそば職人の修行をしてたんです。年は19歳。まさか彼女が蕎麦屋で働くことになるとは…
なぜ?彼女は蕎麦屋を選んだのか?
でも「行くのが嫌だ、嫌だ」といつも言っている。
仕方がない。気持ちは物凄くわかる。
蕎麦屋は特にそう。働いてる人達が独特なんですよ。
とにかく嫌がらせやパワハラが多い。客のクレームも多いし、飲食店はどこもそうだけど。
彼女の蕎麦屋は聞いてる分にはまだまだ分からないけどね、やはり仕切ってるボス(おばさん)がいるらしい。
私のそば屋時代のケース
修行先に選んだのは豊平区平岸の「大善」。
アルバイト北海道で求人があったのですぐ電話をかけて、採用になりました。
店長は当時確か46歳だと覚えてます。
ということは今の俺の2歳上だったのか…そう思うとふけてたなあ、店長。体型はメタボリックスタイルで糖尿と痛風。メガネを掛けててたぬきに似ていた。
実はこの店長、脱サラして30代の頃に「そば処 東家寿楽」で修行をしていてそば職人になった人。のれん分けして平岸の東家になるはずだったが、東家寿楽のオーナーと反りが合わなく喧嘩して辞めたらしい。
そして東家で修行したそば作りで経験を得て、新たに「大善」という店を開店させたのである。5年間は閑古鳥で生活するのにも苦労し、店をたたむまで追い込まれたと言っていた。
そばの味、出汁といい、まんま東家寿楽の味である。東家のそばは更科そばで、自分は大好きなそば店の一つである。
しかし開店時は寿楽のそばを真似したくなかったのか、当初店長はごまそばで出していたらしい。そばもうどんも手打ち、餅も店長が仕込む。店長がへとへとになった所で、常連客から「ゴマそばやめたほうがいいじゃないですか?」と言われて、普通の更科そばに変えた。そしてうどんの手打ちをやめた。
手打ちをやめて機械を購入し、機械切りで更科そばを製造し始めた。機械切りのメリット、デメリットはあるが地味に機械切りはコシとツルツルしたのど越しはとてもよろしいんですよ。
機械打ちでもそばは非常においしいんです。
それから「そば処 大善」は変わった。客がドンと押し寄せてきたのである。それまで店長家族は店で寝泊まりしていたけど持ち家を持つまでの、繫盛店になったのであります。
そば処 大善
さてB型店長の職人気質、奥さんもB型でなんと!超絶美人。平岸界隈では美人で有名な奥さんだった。店長と奥さんは、まさに美女と野獣。
店長は奥さんが働いていたクラブ?で口説き落としたと聞きましたね。
店長は悪い人ではないんですが、とても厳しいし勝手な人だった。不条理なことばかり言ってくるし、機嫌が悪い日は一日中イライラしていて、自分はいつも我慢して働いていた。
絶対にいつか辞めてやろう!と決意。しかしそこに大黒さん(仮名)というめっちゃ可愛い大学生の女子が働いていて、その子に会うために毎日我慢して働いていた。
あとは奥さんも綺麗で優しかったし、敵は店長と昼のラッシュ時と客でした。
最初はAM10時~16時までのアルバイト契約でしたが、俺は自分でいうのもなんですが仕事はできる方なんで、店長から仕事が評価されたのか?
ある日店長から「加藤、良かったら17時までいてくれないか?」と言われて、
俺はまあいいか、1時間くらいの延長は…と思い、働き続けてると、
ある時また店長から「加藤よ、悪いけど18時まで働けないか?なんもないだろ?帰っても?」と。
さらに「加藤よ、21時までいてくんねえか?」と。
まんまと10時~21時までのフルタイムで働くことになってしまったのである。しかも休憩時間という休憩時間は決まっていなくてほとんどないのと同じだった。
もちろん大黒さんは16時まで。大黒さんと一緒に働き、上がって地下鉄まで一緒に話しながら歩いて帰るという喜びは無くなった。
奥さんも子供の面倒夕飯支度をしなければならなかったので、15時~16時には上がっていた。パートのおばさんも14時上がり…
だから16時以降は店長とマンツーマン。
まあ、17時以降は立地条件からお客さんは、あまり来ることはなく忙しくはなかったけれど、出前が特に大変だった。俺は出前要員だったので。
今は亡きハドソンが入っているビルも斜め向かいにあり、周辺にはオフィスビルが立ち並び、近くには幌南病院(現在はKKR病院)がある。客層は平岸街道周辺のサラリーマン。
だから平日の朝から出前が殺到し(出前はほとんど俺専門)、食事時のお昼には満席だった。その代わり混むのは昼間くらい。
だから昼間は店長と奥さんと俺と大黒さんとパートのおばさんの5人体制。
出勤はアルバイトから、ほぼ店長の助手状態になってしまい、丼物は作るし、鍋焼きは作るし、天ぷらまでとドンドンステップアップしていく。あとはそばの仕込みと出汁とかえしの勉強。出汁をつくるのは教えてもらった。
使ってたのはシンプルに鰹とサバ節。アク取りを忘れた時には、店長に無言で全部出汁を排水溝に捨てられてしまった。また一からやり直し。
あれ?これ、俺はそば職人になるのか?
ここで非常に迷った。
意地悪な店長だけど、酒が好きな人で奥さんが帰ると、すぐ千歳鶴を飲み始めてご機嫌が良くなる。
奥さんに酒を飲みながら仕事しているのを、バレた時は言い合いになって喧嘩をしていた。二級酒の千歳鶴はかえしに使うもので、剣菱は客に出すものだから、千歳鶴が無くなったら剣菱には絶対に手を付けなかった。
そして酔っ払って店が売り上げも調子良く、ご機嫌が良い時は閉店後に、近くの養老乃瀧や地下鉄平岸駅のすぐ前の屋台によく飲みに連れていってもらった。
その時に店長から「加藤よ、俺の店継がないか?」と言われた。
考えた・・・ひたすら考えた・・・20歳でそばに一生を捧げるか?死ぬまでそばと共に生き、死ぬのか?
自分が死ぬまでのことを考えたら、そば職人になることに恐怖を覚えた。
そして一年経ってから、店長に「店長、来月で退職させてください」と伝えた。はじめは「あ、そっか…」と店長はそっけなく答えた。
俺の後に入る新人の為にお客さんに対応するマニュアルなど、絵で書いて本にして残した。すると店長に辞める間際、惜しまれた。
そば屋退職後…
その後アンカー工に転職したが、店長との交流は続いた。
何故なら毎年12月31日には「大善」に年越しそばを買いに行き、店長の顔や体調など元気か?様子を見に行くのが常になった。
度々店長の姿を見て、一緒に飲みに行く時には以前より店長が小さくなっていて、性格は丸くなっていた。
店長「加藤、今の仕事は楽しいか?」
俺「はい!楽しいです!」
店長「そうか、よかった…うちに戻る気は無いよな…おふくろさん…大切にすれよ!」
俺「は、はい!」
それが店長との最後だった。
パチンコ屋に転職してからは「大善」に行かなくなった。
息子さんが跡を継いだとの風の噂を聞いた。
ある日平岸街道を通った時に「大善」は俺がいた時より店を拡張して大きくしていた。
近くにはチェーン店のそば屋「高田屋」が建っていた。
そして数年して「そば処 大善」は閉店していた。
なんか寂しい気持ちになった。また店長にいつか会いたいですね。
そんなそば屋時代の懐かしい話でした。おわり。
✩.*˚最後までお読みいただきましてありがとうございます。