kemoxxxxxの日記

kemo cityからの脱出

政令指定都市 札幌 年末年始は函館

初めての函館で年末年始を過ごすことになりました。

大掃除は連休中に済ませたので、自宅を綺麗に整理整頓の上、部屋を正月に向けた仕様にして鏡餅と御神酒と正月の飾り物を置き仏壇に線香立てて、読経し手を合わせて本日17時55分に札幌を出発することにします。

高速バスの予約は1ヶ月前に済ませて起きました。

札幌人からしたら函館は遠い遠いところなんです。


北海道の政令指定都市

まず中核市とは法定人口が20万以上と定められている。函館市も中核市である。あと北海道では旭川市。

特例市なるものもかつてあったが(地方自治法第252条の26の3第1項)2015年に制度が廃止されている。特例市から中核市に移行しなかった市は施行時特例市とされているが、順次移行することになっている(尚東京都23区は特別区)。

そして政令指定都市を見るとほぼ貿易港を持つ都市となっている。港を持たない都市は札幌市とさいたま市だけ。政令指定都市の条件は市の人口が50万以上だけじゃなく、都市規模や行政処理能力が必要となる。

内閣が出す命令、政令で都道府県なみの財源と権限が与えられた都市になる。つまり道から財源の一部が移譲されて札幌市が財源の使途を決定出来る税収が増えるのです。さらに保健や福祉など都市計画の権限も移譲されて札幌市独自の行政サービスが広がるんですね。

しかし何故内陸部の札幌が北海道の政令指定都市に指定されたのか?先程言った港を持たない札幌市の不思議である(埼玉市は別にして)。貿易の要の港があることによって漁業や海運業、物流運搬も栄えるはずだ。北海道の開拓史では函館市が一番栄えた港町である。幕末の幕臣土方歳三が五稜郭で散った歴史ある有名な都市のはずだ。

北海道の政令指定都市にしようとしたのには何か理由がありそうだ。人口に関しては国のお偉いさん共がどうにかすれば何処にでも人口を集中させることは可能なはずだ。


可能性があった函館と小樽という港町

函館にはその昔存在したかつて金融の中心だったであろう、石造りの古い銀行やレンガ作りの建物が立ち並ぶ場所がある。北海道で他に石造りの銀行があるのが小樽。

北海道の中心都市として考えられるのが、まず小樽。

小樽は函館と並び北海道では歴史の深い市である。一番重要なのは金融と商人の中枢が集まる都市を作らなければいけないこと。そこで海の玄関口である漁業も盛んで開拓民も上陸し、線路を敷いて夕張から石炭を小樽港から運べる小樽。

金融機関も設立されて船舶会社や商社もできて人も物も集まる北海道経済の中心都市として栄えた。今現在も街にその名残がある。

しかし戦後はニシン漁の不漁や石炭需要が無くなったことと、樺太を奪われたことも重なり、道内の各都市の港湾整備も衰退していき札幌が北海道の中心都市となった。以後小樽は運河を残して観光都市となった。

函館が中心都市にならなかったのは蝦夷地時代に松前藩と揉めたという話がある。

しかし致命的なのが函館と小樽の土地というのは海と山に囲まれた辺境な土地だったということ。この2つの都市に共通して言えるのは特に坂が多いことである。

あと港と言えば苫小牧ですが、当時の苫小牧港は浅くて大きな船舶が寄港することが出来なかったようですね。


道庁所在地として作られた札幌の歴史

明治では蝦夷地を北海道と改めた時に本府は札幌に定めた。この時点で指定都市は札幌に置こうという勢力が存在した。札幌に本府を置くべきと唱えたのが北海道の名称を付けた探検家・松浦武四郎でした。札幌というか石狩平野が扇状地だった為、人が住み良い土地だと考えられました。

松浦武四郎は政府に仕えて北海道をくまなく周ります。そして武四郎の報告を受けて、明治政府は石狩を本府に置くことに決定しました。石狩平野は広大で豊平川から石狩川という長い大河が流れています。それに当時は札幌から近い銭函を外港として使われていました(のちに小樽)。

最終的に札幌に道庁を置くことを決定したのは北海道開拓使判官の島義勇(元佐賀藩士)という人物。彼は札幌の円山に登った時、原野を見下ろしてまるでその景色は京都のようだと言ったそうです。そして北の京(都)にするぞと決断しました。島義勇は「北海道開拓の父」と呼ばれています。

だから札幌は京都と同じく市内道路は碁盤の目状になっていたのです。

そして一番重要なのはロシアにおける対外関係としての北海道の位置。ロシアが南下すると想定して北海道の本府を置くには、函館や苫小牧だと位置的に防衛上の問題がある。

尚旭川は内地(本州)より距離が遠い為、物資搬入物流の観点からは除外される。しかし旭川も重要な地点として捉えらており、旭川市は自衛隊の町(旧日本軍)が存在する。北の脅威から守っていた。そして他国への牽制の為に明治政府は北京計画として、旭川に天皇の離宮を置く計画を立てたが頓挫した。

よって北海道の重要な要都市は札幌しかないと言えるのだ。

今まで何故札幌が栄えたのか?疑問でしたが色々調べているうちに合点が行きましたね。

『北海道本府・札幌の位置選定と石狩川船運』松浦茂樹 (PDF)


北海道開拓は黒歴史

良い話ばかりではありません。北海道は明治政府に始まり、その大昔蝦夷地時代から内地に都合の良いように使われて来た歴史があります。

蝦夷地(北海道)には元々アイヌ民族が住んでいました。徳川幕府時代の松前藩はアイヌを人間以下として扱い労働をさせた黒歴史が存在します。

北海道開拓使判官やお偉い様方は全て内地からいらっしゃった外様です。

そしてなんといってもその開拓作業従事に使われた人々のほとんどが罪人でした。何故ならば軍事上北海道開拓急務に追われていた国は財源には余裕がない。屯田兵や民間には頼めない。

それと同時に増える一方の囚人・重罪人。困った国は、囚人を使えば金はかからないと考え、北海道への島流し(流刑)が始まると彼らは強制的に道路や線路作りに従事させられていました。罪人と言ってもその中には、反政府活動を行った政治犯や思想犯の方が多かった時代なのです。

囚人道路と呼ばれる、札幌からずーっと伸びる国道12号線(上川道路)は旭川まで続いています。その他の道路も全て札幌から放射線状に真っ直ぐ道路が作られています。

また道東では旭川方面から網走へ向かう国道39号線(北見道路)も作られて行きました。ヒグマに怯えながら、うっそうと茂った密林地帯など道路開削工事はもちろん重機などあるはずがなく、岩石など手作業で開削され、それは極めて凄惨で悲惨な重労働だったと言われています。

網走監獄(現網走刑務所)が全国一最悪で劣悪な刑務所だったことは言うまでもありません。それゆえ網走監獄から重罪人を使い、網走から北見峠までの距離160kmを1年間で完成させたのです。どれだけ過酷な労働を科せたかわかるでしょう。他にも炭鉱掘りや硫黄採取にも駆り出され多数の犠牲者を出しました。

北海道にはどの他府県より刑務所の数が多いのです。都道府県各地には多くても2つしかないものが、北海道では現存するもので「札幌刑務所」「旭川刑務所」「帯広刑務所」「網走刑務所(現在の収容定員は1,560名)」「月形刑務所」「函館少年刑務所」と6ヶ所も存在します。「北海道は広いからそんなの当たり前じゃないか」では済まされない話です。きっと多分それは原発と同じ考え方なんだろうな。

また罪人の他、外国人、朝鮮人などを強制労働で働かし、極寒の冬も昼夜敢行で作業させ、なんと逃げないように2人の囚人の足を鎖で繋ぎ逃亡を防いでいました。

多くの人が飢えや怪我や事故や寒さで亡くなり北海道は出来ていったのです。

明治27年に「囚人は二重の刑罰を科されるべきか?」との国会議論により廃止されましたが、しかし形は変えられて大正、昭和とも引き続き「タコ部屋労働」と名を変えて強制労働は続けられたのです。 それが内地から集められた「タコ」と呼ばれた労働者達は僅かな食料と過酷な作業により、1912年(大正元年)3月に常紋トンネルは着工されます。のちに人骨が発見された有名なトンネルです。

【特別快速きたみ 常紋峠 常紋トンネル通過】

www.youtube.com

タコ部屋という名は北海道の開拓から生まれた言葉です。タコの語源はいくつかあり定説はありません。

囚人達が無くなった墓を「鎖塚」と呼び、それは北海道各地に慰霊碑に建て替えられました。

私達は亡き先人たちの尊い命の犠牲の上に立って、今生きていられることに感謝せねばなりません。

さて、感謝して函館ニュースター号に乗り込みましょうか。

函館でお会いいたしましょう。


☆最後までお読み頂きましてありがとうございます。

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