魑魅魍魎 1945年ソ連と日本とアメリカ
今日も暑い、9月に入り残暑である。
この暑いさなかに、大日本帝国は74年前泥沼の戦争末期を終えようとしていた。あの日も暑く苦しい決断の夏を、私たちの日本の先人達は何とか必死に乗り切ろうとしていたに違いない。
その前に、日本の終戦記念日とは8月15日とされているが、大日本帝国陸軍は1945年9月9日、つまり74年前の今日、支那派遣軍総司令官の岡村寧次(おかむら やすじ)が南京にて正式な降伏調印式をし、中国の国民党軍に降伏したのである。
(上 支那派遣軍総司令官 岡村寧次、下 国民党軍大将 何応欽)
中国大陸での日本帝国陸軍の日中戦争の相手は蒋介石率いる国民党軍であり、南京降伏調印を正式な降伏としたが、関東軍と北部に位置する共産党軍はまだ戦闘状態、しかも国民党軍と共産党軍が内紛状態である複雑な図式であった。
話は少し戻します。
瀬島龍三(せじま りゅうぞう)という男がいた。
かつての大日本帝国陸軍中佐であり、戦後伊藤忠商事に入社、その後会長職についた。瀬島は戦後有名になった人物でもある。
彼は1911年12月9日に出生、95歳の長寿で2007年の9月4日没した。
この男、第二次世界大戦の日本の末期に大本営の重要な作戦に従事し、ガダルカナル島、沖縄戦以降ほとんどの作戦に関わるが、ことごとくこれらの作戦は失敗する。
この男のせいで何人が犠牲になっただろうか?最大の戦犯と言っても良い人物である。
日本が敗戦するまで、失敗した作戦に対して責任も取らされず、罷免もされずに何故か、大東亜戦争の作戦立案する部門、大本営作戦課に最後まで居座っていた。いったい誰に護られていたのか?不思議である。
その瀬島の不思議な動きが、日本が敗戦直前の時である。
日本国が大変な中に瀬島は東京を離れモスクワに飛ぶ、その当時に日本の軍人がソ連モスクワに行ったとしてもなんら問題はない。なぜなら「日ソ中立条約」があったからだ。しかし瀬島がモスクワに行った理由は、当時の資料もないし、情報もほとんど無く、本人も語らずで謎のままである。
だが、瀬島はモスクワへ報告をし、何か指示を受けたのは間違いないと読む。
─ 戦前、日本軍の将校は皇道派と統制派があり、簡単に言えばどちらもアカなのである。皇道派は天皇を頂点とした日本型の社会主義を目指す。統制派はソ連型社会主義を目指していた。
しかし治安維持法があったので共産党活動は出来ない。昭和の恐慌により、その皇道派の一部青年将校が引き起こしたのが二・二六事件である。
だから総じて、当時の日本は基本アメリカ資本主義は敵であり、日米開戦となったのである。だから日ソ中立条約も結んだ。
さて、敗戦後瀬島は満洲へ行き、攻め込んでくるソ連軍との和平交渉にあたる。そこで瀬島は関東軍参謀の秦を説得する。
そして関東軍司令官山田乙三は「関東軍は満洲から引き上げ、満洲はソ連に渡す、それだけではなく満洲にいた日本の開拓民はソ連軍に引き渡す」という交渉をした。
なんと!このような売国交渉を極東ソ連軍総司令官と行っていたのだ。さらに鈴木貫太郎内閣、日本政府はこの構想を承認していたのだ。
つまり、シベリア57万5,000人抑留やソ連軍が南樺太と千島列島をどさくさ紛れに奪っていったというのは正確な事実ではなく、この瀬島が主導し陸軍がソ連と水面下でこのような汚い密約のようなものを結んだことが真実であり、シベリア抑留は約6万人の犠牲者を出して、日本政府はその事実を隠した。
これは第二次世界大戦中の日本軍の海軍にも言えることで、陸軍と海軍には常に対立構造があり、その理由は予算の奪い合いであった。海軍がミッドウェー海戦においてアメリカ軍に大敗を喫した時、海軍トップは敗戦した事実をすぐに東条英機にも報告しなかったのである。
そして瀬島はのちにソ連軍に捕まり捕虜収容所に入れられたが、そこで共産主義の教育を受け見事に洗脳させられてしまう。そこには大本営の将校や将軍もいた。その後ソ連との人脈で培った力で、戦後小さかった伊藤忠商事に入り、貿易の仕事を始めるようになる。
その伊藤忠商事は瀬島のおかげでソ連、中国、共産圏で大成功を果たした。
事実は掴んでいたのに発表もせず、政府にも知らせず、敗けるべくして敗け、我が国を占領されるべくして、占領され、一握りの人間達の私利私欲のために多くの人が犠牲になった。
1945年2月に行われたヤルタ会談もそうである。
いつも裏で物事が決まっている。このヤルタ会談はアメリカのルーズベルト大統領、イギリスの首相チャーチル、ソ連のスターリンが第二次世界大戦後のドイツの分割統治、ポーランドの国境策定、エストニア・ラトビア・リトアニア、バルト三国など、東欧諸国の戦後処理の取り決めである。
チャーチルはスターリンを信用していなかったので、ルーズベルトはスターリンとチャーチル抜きで別室にて密約を結んだ。この時ルーズベルトはかなり重い病魔に襲われており、いつ倒れてもおかしくない状況だった。
ルーズベルトはソ連対日参戦を求めた。ならばスターリンは要求する。ドイツを攻め込み降伏させた後に日本に参戦するには90日は必要、日本との戦争は90日後と決める。
そしてその暁には南樺太、さらに千島列島、朝鮮半島、台湾などの日本の領土問題にも言及して話し合われ、ヤルタ秘密協定を結んだ。つまりアメリカとソ連の間で日本の領土を互いに分けるということをこの時点で決めていたのである。
ルーズベルトがこのような密約を結んだ理由は日本軍の最後の必死な抵抗にアメリカ軍が悩んでいたとして、ソ連に対してアジア、特に日本への参戦を求めていたようなのである。
日ソ中立条約を結んでいたのにも関わらず、1945年5月7日のドイツ降伏から、90日の準備を持ってしてスターリンは日本へ攻め込むことをアメリカと決めたのである。
このヤルタ会談での、情報を陸軍情報部員の小野寺信がソ連対日参戦の情報を手に入れた。この小野寺という人物は中立国スウェーデン駐在武官だった。どのように情報を手に入れたのか?
小野寺の部下はポーランドにいたのだが、ポーランドはソ連に侵略されていたため、ポーランド人は密かに日本に期待していた。ポーランド亡命政府というのはロンドンにあり、そのヤルタ協定の内容を小野寺はロンドンのイギリス政府経由で知ることになる。
まずいと思った小野寺はすぐに大本営へ暗号で打電するが、大本営は政府にも報告せずこの情報をまたもや揉み消したのである。
このソ連対日参戦はその後の北方領土問題の火口(ほくち)となったのである。
ヤルタ会談後、死去したルーズベルトに代わり副大統領だったトルーマンがアメリカ大統領に就くが、1945年7月ポツダム会談にてトルーマンはルーズベルトとスターリンが密約していた内容に愕然とする。
トルーマンはスターリンを嫌い、チャーチルのことを信用していた。
これで米ソ間に亀裂が入ることになったのである。
ドイツは降伏し、スターリンは東欧を手に入れた、ならばソ連が日本に侵攻するとなると日本全土をも手にし、東アジアもソ連に支配され、極東は共産化してしまう。その事をもっとも恐れたトルーマンはヤルタ協定で結ばれた90日間、つまりこの前にアメリカの手で日本を降伏させることが第一であると考えた。
そこにやって来たのが核実験開発、原子爆弾製造の成功である。
これで日本を降伏させるために、ソ連の対日参戦リミットの日付目前である、1945年8月6日に広島への原爆投下が鬼畜米国により実行されたのだ。
このように裏で暗躍していた人物らが、世界を我が物顔に動かしていった。それは今も現在進行中である。過去の歴史から読み解き、冷静に私たちは学ばなければいけない。
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