kemoxxxxxの日記

kemo cityからの脱出

ニキ・ラウダが天に召されてしまった·····

【Niki Lauda】

F1ファンなら誰もが知る人物、ニキ・ラウダ。

しばらく表舞台に現れないと思ったら、病に伏してたんですね。

ついこの間、YouTubeで最強マシンウィリアムズFW13Bを駆ける、リカルド・パトレーゼを久しぶりに見たのですが…「年取ったなぁ、パトレーゼも。真っ白な髪になっちゃって…」なんて思うも「まだ元気な姿を見れたよ」と安心してたら、突然のニキ・ラウダの訃報にビックリしました。


ニキ・ラウダは1949年2月22日オーストリア生まれ。

1975年、1977年、1984年F1ワールドチャンピオン。

1971年にオーストリアGPにマーチでデビュー。1974年にはフェラーリードライバーに抜擢されて、スペインGPで初優勝。

翌年1975年に6勝して自身初のタイトルを獲り、ワールドチャンピオンに輝いた。

その翌年、彼は1976年のF1チャンピオンシリーズ ドイツGPニュルブルクリンクサーキットで、クラッシュして大火傷をし瀕死の重症を負った。

しかし一ヶ月でグランプリに復帰しカムバック。周囲にあっと言わせた。

だがその傷の代償は大きく、顔は以前のハンサムなラウダと変わりケロイド状の痛々しい姿に変わっていた。

そこでF1引退といかないのがラウダだった。1978年にはブラバムに移籍した。

復帰後、派手ではないが安定した走りをみせて、F1ファンを魅了した。

その翌年1979年にF1引退発表をする。

しかし1982年にはマクラーレンで復帰し、1984年には台頭してきた若手アラン・プロストとタイトル争いになり、3度目のタイトルを獲得した。

プロストがプロフェッサーならば、ラウダはコンピューターと呼ばれていたほどその走りにミスはなかった。

1985年には完全にF1ドライバーを引退して、航空会社の経営者となっていった。

1984年のモナコGPでは、若手新人駆け出しのトールマンに乗ったアイルトン・セナともラウダは走っている。そしてセナは弱小非力なハートエンジンでモナコのメインストレートでラウダをパスする。

体の調子が悪くなる前は実業家も兼ねて、F1メディアに度々登場し、2010年〜2012年の時に可夢偉が日本人ドライバーとしてF1デビューした時に、F1ドライバーとしての可夢偉のセンスと可能性についてインタビューを受け話していた。

1991年には低迷期のフェラーリのアドバイザーに就任したこともあり、航空会社経営しながら、2012年9月にはメルセデスAMG F1の非常勤会長職に就任、2017年に、2018年〜2020年までのメルセデスと契約を延長したが、肺胞出血で入院、肺移植の手術を受けた。

だが病状は安定せず、2019年5月20日月曜日に急死しました。

ライバルで友だった、ジェームス・ハントやロニー・ピーターソン、ヨッヘン・リントとあの世で仲良くやっているでしょうね。

本当にお疲れ様でした。

ジェームス・ハントは45歳と若くして亡くなりましたが、ニキ・ラウダが70歳で亡くなるというのは「不死鳥と呼ばれた男」にとってはあまりにも早すぎる死でした。

同世代、あの時代、共にグランプリを走った、エマーソン・フィッティパルディやマリオ・アンドレッティ、ジャッキー・イクス、アラン・ジョーンズ、ジャッキー・スチュワート、カルロス・ロイテマン、ジョン・ワトソンなどなど、まだ名ドライバーは健在です。

彼らも悲しみに伏せていることでしょうね。


「アンドレアス・ニコラウス・ラウダ」

【出走回数】171戦

【勝利回数】25勝

【ポールポジション】24回

【ファステストラップ】25回

【通算ポイント】420.5ポイント

ご冥福をお祈りします。r.i.p.

☆最後までお読みいただきましてありがとうございます。