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Formula 1 チームの栄光と没落

今季のF1開催はCOVID-19の世界的なパンデミックによって開幕戦オーストラリアGPは中止、続く第6戦モナコGPまでが開催中止となり全22戦の予定が、その後のグランプリ開催も未定。

現在もまだ決まっていない。

当初オーストラリア開幕中止発表の後に予定としては6〜7月を目処に開幕するとあったが、F1伝統の中心欧州がCOVID-19によって悲鳴をあげた。

この状況でプライベターチームの資金繰りが苦しくなる可能性は高い。

ワークスのフェラーリもF1撤退を示唆しているが、フェラーリは絶対にしない。フェラーリよるメルセデスの撤退は有り得るかも知れない。それとホンダ。

F1チームにはワークスチームとプライベーターチームと2つに分けられる。

現存するチームでワークスチームは、スクーデリア・フェラーリメルセデスAMG F1、ルノーF1。

プライベートチームは、マクラーレン、ウイリアムズF1、レッドブル・レーシングハースF1チーム、アルファロメオ・レーシング、スクーデリア・アルファタウリ、レーシングポイント。

レッドブル・レーシングプライベーターではあるが他のプライベーターと大きく違うのは、広報活動があり豊富な資金をレッドブルは自前で用意出来るところにある。

他のプライベーターは大きなタイトルスポンサーがなければチームの運営は苦しいということ。

しかもレッドブル・レーシングは自社での高いレベルでのシャシー開発と知見や運用があるので、ワークスを圧倒する力を持っている。

ワークスは自動車製造会社が巨大な自己資金を投じることが出来るためマシンの開発資金は豊富である。

プライベーターがゆえに資金不足に陥り、マシンの戦闘能力は低迷し滅んでしまった、かつてチャンピオンチームの常連だった名門と呼ばれたプライベーター、チームロータスブラバムF1、ティレルレーシング。

今日は彼らの栄光と没落を振り返る。

その前に唯一日本のチームがF1で勝利を挙げている、ホンダF1を思い出してみるとする。


ホンダF1の栄光と没落

コンストラクターズとしてのホンダF1の勝利は通算エントリー数99戦中3勝しか出来なかった。

ホンダの栄光とは活動第2期のエンジンサプライヤー時期がホンダの一番輝いた時期。ホンダもファンもこの頃の栄光を捨てきれないものがあるのだが…。

その活動第2期、1986年-1992年まではエンジンサプライヤーとして69勝を挙げた。

88年にウイリアムズからマクラーレンにエンジン供給チームをチェンジして、マクラーレンプロストとセナで16戦15勝するなど、88年から91年の4年間連続でマクラーレンコンストラクターズチャンピオンに輝くと共に黄金期を築いた。

エンジンだけでいうと86年と87年もウイリアムズがコンストラクターズチャンピオンを獲得しているため、ホンダエンジンは6年連続チャンピオンとして君臨したことになる。

コンストラクターズを獲得した一覧を見てみるとエンジンだけとれば連続獲得はいずれも6年間が最高である。

ということは、法則通りにいくと2020年のメルセデスコンストラクターズチャンピオンになるのは難しくなった?

ルノーは完全に無理。開幕延期でフェラーリが巻き返せるか?といっても難しい。マクラーレンメルセデスを積んでる。ならばメルセデスに対するチャンピオン候補はレッドブル・ホンダしかない。

しかしCOVID-19のパンデミックにより、まだ開幕戦の予定さえ立っていないのでレッドブル・ホンダの2020年チャンピオンさえも危うくなっている。

延期をすれば延期をするほど、レッドブル・ホンダはライバルに追いつかれる。

だが、今季2020年、仮にF1開催が中止になったとしたら、FIAから貰える供託金が貰えずにプライベターはF1から撤退せざるを得ない。ワークスだってあるかもしれない。

すると各自動車メーカーの自動車工場の休業により、またホンダはF1予算が苦しくなり「F1から撤退」を叫ぶかも知れない。

フェラーリメルセデスがホンダと大きく違うのが、ホンダは大衆車を製造していること。

第2期のホンダの没落はエンジンパワーだけでカバー出来なくなったことで、速さを追求するのはシャシーとタイヤの管理がより重要なポイントになり、F1の空力は進化してダウンフォースをよりつけて速くなっていった。

第2期のホンダはエンジンサプライヤー時代を撤退に追い詰めた原因は、まず日本がバブル崩壊後のデフレ突入による不景気なものと、ライバルのウイリアムズの空力を担当していたエイドリアン・ニューウェイとリアクティブサスペンション、トラクションコントロールというハイテク技術によって、セナとマクラーレン・ホンダは毎レースウイリアムズに歯が立たなくなり、苦虫を噛み潰すようになっていったこと。

これが第1の没落である。第1期の撤退は没落とはいえない。

第2の没落はやはりバブル崩壊による自動車販売の不況によるホンダのF1撤退だろう。まだホンダがF1にいればセナもウイリアムズに行かなかったかも知れない。そしたらセナも生きていたかも知れない。

第3期のホンダF1の活動はまず、ジョーダン・グランプリにエンジン提供、そしてチーム B・A・R と組むところから本格的にスタートした。

2004年のB・A・R ホンダはジェンソン・バトン佐藤琢磨フェラーリに迫る走りを見せて、同年コンストラクターズポイントでチャンピオンのフェラーリに継ぐ2位の結果で終えた。しかしこの年のホンダの勝利はなかった。

翌年では他チームより開発が遅れ、ルノートヨタレッドブルが台頭し、フェラーリをターゲットにしていたB・A・R ホンダは2005年ルノーアロンソをチャンピオンにさせてしまう。倒すべき敵を間違えたのだった。

日本人F1ドライバーB・A・R ホンダの琢磨は不運に取り憑かれた1年により、翌年2006年のホンダF1 のシートをウイリアムズ移籍をやめたバトンとフェラーリから移籍するバリチェロに奪われてしまうのだった。

だがB・A・Rホンダはバトンの活躍で上位チームとしてインパクトを残すことはできた。

2006年はホンダはコンストラクターとして参戦して、フルワークス参戦となる。レギュラードライバーはジェンソン・バトンルーベンス・バリチェロ

そしてハンガリーGPの8月6日で活動第3期として初めての勝利を挙げた。

しかしその後はパッとせずに翌シーズンへ突入。

2007年〜2008年のホンダワークスは低迷に次ぐ低迷に陥り、後方でのレースを重ね続ける。

2008年9月にはリーマンショックにより、またもや本業の自動車販売の売り上げ低迷やリコール問題の打撃によりF1から撤退を宣言。今度はコンストラクターとしてチームを売却する大きな撤退である。

そのチームをロス・ブラウンになんと1ドルで譲るということをしてしまう。同時期にトヨタも撤退するのか?と囁かれたが、辛うじて残った(しかし2009年シーズン終了F1撤退の発表をする)。主要のワークスも撤退せず、F1に残った。

その後2015年にレギュレーションが変更し、エンジンがターボの時代へと変化した時に再びF1へ戻ってきたホンダだったが、マクラーレンとの最悪な3年を過ごした。

その後トロ・ロッソ(現アルファタウリ)からレッドブルパワーユニット供給を成功させて、2019年にはレッドブル・ホンダとマックス・フェルスタッペンが待ちに待った復活の狼煙をあげる勝利をレッドブルのお膝元オーストリアGPで飾った。昨年はもっと勝てたはずだが、フェルスタッペンが3勝を挙げる。

そして、今年はコンストラクターズチャンピオン、メルセデスと並び最有力チームとされていたレッドブル・ホンダだったが、未だ開幕の予定さえ立っていない。

世界経済も低迷し、自動車販売は当然冷え込む。

当然そうなると景気に左右されるのはホンダの方であり、F1に巨額資金を投入することは難しくなる。

チームの撤退が相次ぐとカテゴリーとしてのF1さえ危うくなってきた。

ならば、また…

ホンダはF1から撤退せざるを得ないのではないだろうか?

ホンダのF1での浮き沈みの激しい波はこれからも続くのだろう。


ティレル・レーシングの栄光と没落

創業者はケン・ティレル

中嶋悟片山右京、また高木虎之介が所属していたチームなので日本人には馴染み深いチームである。

ティレルは革新的な車を出してきたりした。古くは6輪車のP34で左右フロントの2輪タイヤとか、90年には他チームを驚かせたフロントを持ち上げたハイノーズのコルセアウィング、97年にはXウイングで、左右のサイドポンツーン上の垂直支持板に取り付けられたものなど積極的なマシン開発を行ってきた。

ティレルコンストラクターズチャンピオンを経験し、かつて2度のワールドチャンピオンをジャッキー・スチュワートを輩出した名門チームである。

通算勝利数は23回。

さて、ティレルの新興勢力として活躍し始めたのはなんといっても、1971年のスポーツカーノーズを登場させた、ジャッキー・スチュワートとのダブルタイトルの獲得である。1973年にもジャッキー・スチュワートがタイトルを獲得するなど破竹の勢いを見せた。

これがやはり第1の栄光のスタートで最後の輝きであった。ティレルの黄金期はまさに70年代だった。

その後は1976年に6輪車を登場させ、ドライバーはジョディ・シェクターシェクタースウェーデン、イギリスで優勝、同年コンストラクターズは3位となった。77年にはシェクターが移籍した代わりにロニー・ピーターソンが加入、驚きの6輪車はティレルだけの供給でタイヤ開発が遅れ低迷。ロニー・ピーターソンもロータスへの移籍が決定。

1978年にはP34を諦め、ドゥパイエがモナコを制したがスポンサーのエルフとシティコープがこの年を持って撤退。ドゥパイエもリジェへ移籍するなどして徐々にチームの戦闘力は落ちてゆく。

80年代はミケーレ・アルボレートが良い走りを見せるとフェラーリへ移籍、スポンサーも付かず相変わらずマシン開発は苦しく、低迷を続けることになる。

80年代末期、名門再浮上のきっかけを作ったのはチームに招聘したデザイナーのハーベイ・ポスルスウェイトだった。

ティレル018はメキシコGPでミケーレ・アルボレートがチーム6年振りの表彰台を獲得すると、翌年90年にハイノーズ型のフロントウイングを搭載したティレル019は、モナコGPでアレジが2位に入賞して安定した結果を残し、その年のコンストラクターズでは5位に入った。

ジャン・アレジティレルで結果を残し、他チームから評価されて91年にはフェラーリへ移籍することになる。

ティレルの伝統はドライバーはチームで活躍すると、翌年ティレルを出ていくというもの。

中嶋悟が持ち込む日本企業のスポンサー(PIAA・EPSONなど)で何とか資金繰りを維持はできていたが、そのくらいのマネーではマシン開発も進められず、シーズン末までタイトルスポンサーを獲得出来ずにコンストラクターズでは、上位を狙えないという負の循環が続くのであった。

翌年91年にはチャンピオンエンジン ホンダV10を獲たが、エンジンパワーに釣り合わない型遅れのシャシーと温度に敏感で弱い、ピレリタイヤのお陰で前年度の成績から急落し、唯一モデナがカナダGPで2位表彰台を獲得したのみで、メインスポンサーのブラウンもホンダエンジンも、そして中嶋悟もこの年を最後にティレルから去った。

92年から度々チームの身売りを囁かれるようになる。メインのタイトルスポンサーが万年空席のティレルは、いつも開発費が乏しく資金難だった。

しかし94年から日本人ドライバー片山右京が加入することにより、日本企業のスポンサーが多少ともなりついて、エンジンもヤマハV10を4年使用することになり、マーク・ブランデル僅かな輝きを見せるも、さらなるハイテク競走についていけず、やがて消滅の道へと辿った。

98年でティレルはその活動を終える。

ティレルは1999年にはB・A・R(ブリティッシュ・アメリカン・タバコ)に買収され、B・A・Rはホンダに変わり、ブラウンGPになり、今のメルセデスAMGとなっている。

皮肉なことにメルセデスAMGの元はホンダであり、中嶋企画や日本企業が最後までバックアップしたティレルなのである。


ブラバムの栄光と没落

創設者はジャック・ブラバム

コンストラクターズタイトルは1966年と1967年の2回で、ドライバーズチャンピオンは66年のジャック・ブラバムと67年のデニス・ハルム、81年と83年のネルソン・ピケ

第1次黄金期は59年、60年にチャンピオンに輝いたジャック・ブラバムがクーパーから独立してブラバムを創設した時。

参戦3年目64年に早くも初勝利を挙げると、自身が創設したジャック・ブラバムが66年にドライバーズタイトルを獲得、翌年もデニス・ハルムがチャンピオンを獲得し、ブラバムも常勝チームの仲間入りを果たしていた。

しかし70年にジャック・ブラバムが引退をするとチームは再び低迷をはじめた。

第2次黄金期は才能を開花させたネルソン・ピケがナンバーワンドライバーになった頃からだろう。80年はチャンピオン争いをして2位だったが、翌年81年にはアラン・プロストに競り勝ったピケはブラバムで初のドライバーズタイトルを獲得する。

そして83年にもワールドチャンピオンタイトルを獲得してからというもの、ブラバムの株は急落していく。ドライバーも冴えない、スポンサーもつかなくなり、供給エンジンも駄目となれば年々戦闘力は落ちていく。

ブラバムカラーと言えば白と紺色のツートンカラーだが、メインスポンサーはパルマラットが支援していた。

しかしマルティニ、パルマラットとイタリアのスポンサーが消えると、資金繰りはどんどん苦しくなる。F1日本バブルが手伝ってエンジンと資金をメイドインジャパンで用意したが、如何せん車が遅くさらに低迷していく。

そんな92年日本人ドライバー中谷明彦を起用するとしたが、スーパーライセンスFIAから発行されず急遽ブラバムは話題作りも兼ねてか、F1史上5人女性ドライバージョアンナ・アマティを起用。

ペイドライバーしか起用しない方針は続き、チームは悪循環に陥り、日本バブルも終焉。小さなスポンサーさえもつかなくなって資金難となり同年ハンガリーGPを最後にF1を撤退。

翌93年には名門ブラバムは完全消滅した。


チーム ロータスの栄光と没落

最後は忘れられた名門、チーム・ロータス

本来のロータスカラーはグリーンだが、メインスポンサーを車体一色をカラーにするロータスのカラーはJPS(タバコ)カラー、キャメル(タバコ)カラーから生まれた。

それだけメインスポンサーがロータスに巨大マネーを投じたからだろう。

ピケのギャラはホンダ時代はホンダが支払っていたが、次年度よりホンダが居なくなるとメインスポンサーであるキャメルがチームが受け取るスポンサーフィーより5割はピケに動いたともいうので、それだものエンジンはカスタマーでマシンの開発費も無くなる訳だ。

しかしティレルブラバムとは格が違う79勝を挙げた常勝チームで、前年度ウイリアムズがコンストラクターズチャンピオンに輝いた1986年では通算勝利数においてもウイリアムズより上である。がゆえにF1で優勝争いを求められたプライベーターであった。

今では考えられない。

ロータスの黄金期はコーリン・チャップマンがいた頃で、亡き後のロータスの成績は下降の一途を辿る。

ロータスの陰りが見えたのはチャップマンが居なくなったセナを獲得してからだと思う。

セナは十分にロータスでチャンピオン争いをしていた。しかしもう一つ何かが足りない。

セナのドライビング能力1つでロータスの戦闘力を押し上げていたように思え、つまりセナ以降もピケを獲得したりとドライバー頼みという姿勢が垣間見えた。

まずロータスの古き栄光時代を振り返ってみる。

創立は1958年コーリン・チャップマンが設立する。

まずは1962年からジム・クラークの時代が始まり、翌年63年には10戦中7戦のポールポジションと勝利でコンストラクターズに輝く。

名車ロータス72が駆け、70年〜75年の間に20勝を上げた。70年にはヨッヘン・リント、72年にエマーソン・フィッティパルディがチャンピオンを獲得し、73年にはコンストラクターズタイトルをもたらす。

そして70年後半にはグラウンド・エフェクトカーを新投入し、78年にマリオ・アンドレッティが新車ロータス78の強さを見せつけてチャンピオンに輝く。

その後グラウンド・エフェクトカーが他チームにコピーされるとロータスの優位性は落ち、ロータスは「ツインシャシー」を開発するもFIAからレギュレーション違反を指摘され使えず、他チームが開発した車高調整サスペンションは黙認され、チャップマンはFIAに対して不信感を募らせた。

82年オーストラリアGPでエリオ・デ・アンジェリスが久々の勝利をロータスにもたらすも、シーズン終了後にチャップマンが心臓発作で他界してしまう。

85年にセナが加入してトップ争いを演じたが、セナがロータスから去り、88年はカーナンバー1を付けた王者ピケを迎えたがマシンが悪ければいくら前年度チャンピオンでも速く走れというのは無理な話である。

89年はカスタマーエンジンのジャッドV8を使用。

3度のワールドチャンピオンが予備予選落ちを度々するという、ロータス最悪の年でピケでさえも表彰台にさえ乗れなかった。

ここから一気に94年までチーム解体は待った無しの状況で加速していった。

主力ドライバーのミカ・ハッキネンロータスの将来性に危惧を感じ、マクラーレンへ移籍。

94年に裁判所に破産の申し立てをする。

その後エースドライバーとして奮闘していたジョニー・ハーバートをチームの負債返済の為にリジェに売却してしまい破滅への引き金となり、翌年95年1月には従業員が全員解雇され、F1参戦は断念チームは崩壊した。

F1界に巨額マネーを落としたタバコブランド、Marlboro、CAMEL、John Player Special、WEST、ラッキーストライクマイルドセブン などなど…。

タバコマネーにおける最大限のバックアップを受けたチームの一つロータスロータスはF1で初のタバコ広告(ゴールドリーフ)を受けたチームでもある。

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