三国志演義 関羽神・2
いやー!暑い!熱く!三国志を回想します。
☆前回からの続きでございまする。
─徐州で劉備軍は曹操軍の猛攻に遭い、みな散らばり関羽だけが下邳に取り残され、曹操は関羽に降参するよう説得を張遼に託す。関羽は3つの条件を出し、それが聞き入れないなら降参はしないとした。困惑した曹操に
五関に六将を斬る(ごせき ろくしょう きる)
関羽に反感を持つ、曹操の将、
曹操は張遼らを引き連れ関羽に追いつき、錦のひたたれを贈りその旅立ちを見送った。
先行した夫人達は山賊に襲われるが、
次の
これで五関に六将を斬ったことになる。一騎討ちに関しては関羽無双ではないか。
そして関羽の元に孫乾が訪れ、劉備が袁紹の元から脱出し、
それは夏侯惇で、部将を斬られたとあってはただで治まるはずがなかった。しかしそこへ張遼や使者達が駆けつけ、曹操の公文を届けてきた。
夏侯惇は「秦琪は蔡陽の甥で、わしが預かっていたのだ」と言うが、張遼が間に入り一応の納得をさせた。関羽と張遼は互いに命の恩人と相思い「義」を果たすというところが漢の中の漢を魅せてくれる。
道中雨にやられ、郭常に泊まったが郭常の息子に
そして山賊の頭だった
曹操が「関羽を行かしてやれ」と言われた蔡陽は、その意向をずっと不満に思っており、曹操は何か役を与えてやれば気持ちも収まるだろうと、汝南の
関羽は張飛の前で蔡陽を斬ってみせ誤解を解く。そこに
赤壁の戦い
建安十三年(207)いよいよ赤壁の戦いを迎えるが、真っ先に関羽は外される。何故ならば曹操に以前恩恵を受けているから、きっと関羽は曹操を見逃すだろうと、孔明に言われ、関羽は「万が一曹操を見逃した場合は軍律に照らして処罰して欲しい」と誓紙を書き五百の突撃隊を率いて
劉備は「あのようにしても見逃すだろうな」といい、
孔明は「天文をみまするに曹操の命数はまだ尽きていませぬ。ですから、それで関羽に義理を果たせておけば良いでしょう」といった。
この一連の流れは曹操を必ず倒すべきであるならば、張飛か趙雲を送ればよいものをわざわざ送らなかった。そして関羽は誓文を書いてまで曹操を討つ決心をした。神の如く先を見通してしまう孔明、戦乱のさなか義理を突き通し重んじた関羽。その両方を描くとこのようになる。
そして赤壁の戦いで敗れた曹操が敗軍を率いて
孔明はその退路を断つべく、要所要所に張飛、趙雲を配した。曹操はこの孔明の張った罠にはまり、行く先々で、張飛や趙雲からの部隊の襲撃を受けることになる。ようやく血路を開いて辛うじて残った疲弊しきった敗残三百騎あまり、そこに両側から砲声とドラがドーン!と鳴り、五百の突撃隊が現れ、正面には大将の関羽が青龍刀をさげて、赤兎馬に跨り、行く手を遮った。
しかし謀士の
曹操はその言葉に従い、馬を走らせ身を屈めお辞儀をして関羽に話す。
「将軍、一別以来、お変わりはないか」
関羽も身を屈めお辞儀を返して言った。
「それがし軍師の命を受け、久しく丞相をお待ちしておりました」
「わしは戦いに敗れ危機に陥り、事ここに至ってはもはや逃れる道もなし。どうか将軍には昔のよしみを重んじてくだされ」
「いかにも昔、それがし丞相より大恩を被りましたとはいえ、顔良、文醜を討ち取り、白馬の戦いにて危機を救ったことで、既にご恩返しさせて頂きました。今日のことにつきましてはどうして私情により公事を廃することができましょうぞ」
「体調を崩して弓を取れない
すると関羽は五関に六将を斬った時のことを思い出し、さらに曹操軍の兵達の怯えきった顔と涙をする姿を見るとたまらなくなった。
自軍の突撃隊に「散らばり路をあけろ」と号令をかけ命じた。
これは曹操を逃がそうとした行為である。曹操は関羽が馬をかえしたのを見るとすぐさま部隊たちと共にどっと突き進んだ。関羽が振り向いた際には、曹操と部隊はすでに囲みを通過した後だった。
(ここで曹操が関羽に持ち出した『春秋』の挿話は春秋時代、
そのあとからも逃走して来た張遼の軍も見逃し、結果何ひとつ得ずに帰順すれば、祝勝の宴の最中。
孔明は誓紙に従い即刻に首を打てと命じるが、劉備が急いでそれを止め死罪は免れた。孔明と劉備は互いにこうなる事を知っていたが、他の将軍らに対して示しがつかないのでこうした手順にした。
この一連の流れは演義においてとてもうまく良く出来ていて評価されていると思う。関羽は桃園の誓いをした劉備と張飛と義兄弟であるが、また関羽と曹操と張遼もまた裏で深く結びつけられており、この華容道については特に関羽と曹操の関係性が信義に重んじ、互いに行動するところが、周到に描かれている。
関羽は曹操のことを「賊もの」扱いと一切
関羽荊州城陥落(けいしゅうじょうかんらく)
劉備の入蜀には抵抗が大きく、苦戦しながら進めたが
関羽は「孔明殿、荊州はそれがし死んでも守り抜きます」という言葉に不吉を感じた孔明は「北は曹操を拒み、東は孫権と和す」と基本姿勢を関羽に言い残し出発した。しかし関羽の考え方は逆でとにかく孫権憎しで、呉の力を甘く見ていたのであった。
その後劉備は益州を取ったのだが、当然呉が騒ぎ出す。呉が荊州の領有権を主張しはじめた。最初に孔明の兄、
席上、魯粛は「以前、蜀を取ったら荊州を返すという約束をしたではないでしょうか」というが、薙刀一刀で宴席に現れた関羽は「宴席でそういう話など・・・」とまともに取り合わず、魯粛をおどかしながら船に乗ってさっさと帰って行った。
さらに呉の使者の諸葛瑾が持ちかけてきた孫権の子と関羽の娘の縁談を「わしはな、呉の
また関羽は
費詩は「それは将軍違いまする。将軍は
そう費詩になだめられて関羽は悟り詫びたものの、この時すでに呉の荊州攻略作戦は始まっていたのである。
ここも本当に面白いところであり、関羽のつまらない意地とプライドが見えてきて、この演義では飛び抜けてよく描かれている。
馬超が劉備の配下となり蜀の将となると、関羽は「西涼の馬超と腕試しがしたい」と養子の関平を成都に遣わした。しかし孔明は「馬超は例えば、
あゝ華容道までの話が台無しになっていく関羽。
生前は歳をとるごとに目下からの人望が薄くなっていったのだろうか。この手の話しは様々な形で書かれている。この空気を読むことが出来ない関羽自身の考え方が死を決定づけたと言っても過言ではない。つまり関羽も死んで亡くなってから神となったわけで、三国時代では、我がとても強くそして腕っ節の強い勇将だったのかもしれない。
「関羽は目下の者に優しく、目上には厳しい。対して張飛は目上のものに従順で、目下のものに厳しい。」と
張飛はわかりやすいが、なぜ関羽はこう評されたのであろう。関羽は馬超を客将と
こういうこともわからずに関羽は糜芳や
そして孔明は魏と呉の荊州争奪戦に、樊城の曹仁の軍勢を出させるようにし、あべこべに機先を制して関羽に樊城を攻めさせるよう劉備に進言した。
そして樊城攻めの先鋒に糜芳と
関羽は夏侯存を討ち取り
「呉に動きに備えて長江の川岸に狼煙台作るべし」と進言をした王甫がまた、「南郡・公安を守る、糜芳と士人に加えた
このような行為を重ねた為、人望のない関羽のツケが後々に回ってくるのである。
樊城を取り囲んだ関羽だったが、曹仁が踏ん張り持久戦に持ち込まれた。その間当然魏からは援軍が来る。しかしその
その時呉の大都督
その名を聞いたことの無い関羽は侮り油断した。こう思えるのも不思議なことではない。関羽に物申す者が近くには居らず、周りには関羽を慕う者、関平、周倉など取り巻きの太鼓持ちしかいなかったからだ。
そうして呉の陸遜の策により、蜀と魏と呉の重要地点
これをチャンスと見た呂蒙は易々と狼煙台を襲撃してゆき、占領。治中の
士人は
そして荊州城陥落の噂は瞬く間に広がり、廖化が荊州が呉に落ちたことを告げると関平は「流言だ」と否定、徐晃が
【次回『孤立する関羽』】
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