kemoxxxxxの日記

kemo cityからの脱出

三国志演義 関羽神・3

☆前回からの続きでございまする。

━ 前回からのあらすじ

関羽徐晃(じょこう) を筆頭する魏の手勢に負け戦をして来た、関平廖化から荊州城陥落の一報を聞く。曹操の大軍と徐晃の先鋒をなした軍勢は関羽の陣へと迫っていた。しかしそれを信じない関羽は傷が癒えぬまま、自ら陣を打って出て迎え受けることになる。


孤立する関羽

徐晃と対峙した関羽は以前、大変世話になった礼を述べるが、一転して部下に「関羽の首をとったものは黄金千両を与えるぞ」と鼓舞し、関羽は驚く。

徐晃は「これは国家の一大事なり、私情を挟むわけにはいかぬ」の言葉に、以前曹操を見逃した関羽の心にグサッと刺さったであろう。

関羽も応戦したが右腕の傷がまだ癒えず、苦戦を強いられ帰順するも、 樊城(はんじょう) の兵が突如城門を開いて曹仁も繰り出す。

これには堪らず、左右から挟み撃ちにあい襄江(じょうこう) の上流へ向かって敗走しだした。

勢いの乗った魏の大軍は追撃をやめなかった。

関羽の軍勢は襄陽(じょうよう) へ入り、公安を目指すも早馬で、

ようやく士人(傅士仁)と麋芳が呉に降ったことを知る。

関羽は傷口も開き怒りに震え昏倒。王甫に「お前の言うことを聞いておけばよかった」ともらす。

そして督糧官の趙累(ちょうるい) の進言で、馬良、伊籍を救援に成都に送らせたが、四方八方塞がりで進退は極まり、関羽荊州街道で野営を続けていた。

襄陽には徐晃が入り守りを固め、曹操は摩陂に駐屯していた。関羽はとうとう追い詰められる。

さらに超累は呂蒙荊州の民を奪ったことにより信義に背く行為だと、関羽荊州へ向けて「詰問の書」を携え使者を派遣することを進言した。

しかし使者が見てきた荊州の民は安泰、人民はなんの不満もないのでかえってそれが関羽に従う軍兵への、気持ちに影響し、夜中に脱走、逃走するものが続出した。

ここで関羽はやっと呉の呂蒙の知略に謀られたことを思い知る。


援軍は来ず...

さらに関羽は過ちを犯した。成都からの援軍を待つように言った関平らの言うことを聞かず、家族の住む荊州への進撃を決めたのである。もちろんその時兵士達は既に戦意を喪失していたのである。

そこに呉随一の呂蒙関羽の行動を読み取り、 蒋欽(しょうきん) 周泰(しゅうたい)韓当(かんとう)の三将に三方からの出陣を命じていた。

三方から囲まれた関羽は離散兵が続出する中どうすることも出来ず、大勢を立て直すため麦城(ばくじょう) に逃げ込んだ。

関羽を持ってしてでも僅か四、五百騎あまりの兵で守備出来ず、上庸の 孟達(もうたつ)劉邦(りゅうほう)へ援軍を要請するために廖化が送り出された。

しかし廖化が到着し、援軍を求めると劉邦孟達へ相談する。すると孟達は「援軍を出してもどの道絶望でございまする。救援に行っても死ぬようなもの。我らの使命はこの上庸を守ることが先決、援軍はお断りくだされ」と援軍は出さなかった。

劉邦劉備が自分を養子に迎えようとした際、その時関羽が反対したことを良く思っておらず、劉邦は援軍を直接成都へ頼むように言った。

それを聞いた廖化は憤怒し、成都へ向かった。


援軍を待つ麦城では食糧も尽き、落城必死の状態であった。孔明の兄、諸葛瑾が呉の使者として「呉侯に帰順くだされ」と説き伏せられたが、「玉は砕けても白さを失わず、竹は焚けても節を変えない」(『劉子新論』(りゅうししんろん)大質篇の言葉)と頑なに拒んだ。

呂蒙は計を立てていた。

関羽がもう時期耐えられずに麦城を出ることを予見し、朱然(しゅぜん)潘璋(はんしゅん)を逃げ路に伏兵として配置していた。

毎晩逃げ出す兵に関羽は考えた。廖化が死んだか、それとも上庸の孟達が兵を出し渋ったか。王甫は「それがしが兵と残りますので城を捨てて西川(せいせん)に逃れ、再び軍備を整え漢水一体を取り戻されてはいかがでしょうか?」と提案した。

周倉も残ると言ったことで決断した関羽

呉軍の一番手薄な北門から夜に趙塁、関平と共に関羽は自らが呉軍の手薄い陣を突破し、深夜に麦城から飛び出した。それは呂蒙に見透かされていた。わざとその陣で関羽関平らを待ち伏せしていた呉の兵に囲まれ、趙塁は死に関羽は馬の足を絡め取られ、潘璋の部将馬忠に生け捕られ、関平も力尽きついに捕らえらるのであった。


関羽の最期

一晩明けて孫権の前に引き立てられた関羽は、孫権

碧眼の小児(へきがんのしょうに)紫髭の鼠輩(そぜんのはいそ)

(青目の小僧、赤ひげのねず公)と罵った。

孫権は何とか関羽を配下にしたいと説得すると試みるも、主簿の左喊(さかん)

関羽を説くのは無用でこざいまする。その昔曹操がこの人を得た時に厚く目にかけらましたれども、引き留めることは出来ず、五関の大将を斬って去って行きました。いま息の根を止めねば後日呉に禍を残しましょう」と言われ、しばらく孫権は考えた末に、関 平ともども首を打った。

━ 建安二十四(二一九)年十月、五十八歳であった。

周倉と共に麦城に残った王甫は血まみれの関羽を夢見る。そこへ関羽関平の首を持った呉軍が押し寄せて来たのを見て、王甫はヤグラから飛び降りて死に、周倉は自勁(じけい)した。


かくして呉は荊州、襄陽の地をすっかり手に入れた。

思えば、劉備孫権の妹との結婚のため呉の甘露寺の大きな石を見て「無事荊州に帰れて、王覇の業を成し遂げられるなら、石よ二つとなれ」念じ剣を振り下ろせば、真っ二つ。

それを見た孫権も「荊州の地を取り返し、呉を盛んに出来るなら、石よ二つとなれ」と言って剣を一刀両断、ひと太刀で石は真っ二つに割れた「恨石」(こんせき) の話はここに応じていたのだ。

この十文字に四割りになった恨石は今でも残っている。


そして関羽の死後、様々なところで不思議な事象を起こすこととなる。

まず関羽の愛馬赤兎馬(せきとば) も餌を食べなくなって死んだ。

関羽の魂は荊州の当陽縣玉泉山(ぎょくせんざん)に飛来し鎮国寺の普浄という僧の前に関羽の霊は現れ無念を訴えた。

この普浄という僧は五関を破り六将を斬ったとき、汜水関で関羽を匿った人物である。関羽の魂はまず先に、この普浄に「顕聖」したのだった。

その後も玉泉山に霊験となり現れ住民を救ったので、山頂に廟を建てた。しかしそのあと直ぐに呉の祝勝会で呂蒙に霊異を現し取り憑き、呂蒙は七穴から血を流して死亡したとか。

人々はそれを関羽の呪いで死んだと噂し合った。関羽の霊験あらたかな祟りの神である。

張昭は孫権にその禍を魏に転化するよう進め、関羽の首の塩漬けは曹操の元へと送られた。

司馬懿は呉が送ってきた大きな禍と見抜いた。曹操関羽を死んで「首」になってもまだ二国を恐れさすと慄いた。

そうして関羽を恐れた曹操はねんごろを持って洛陽の南門外に葬り、荊王の位を送った。まだこの時点で劉備関羽の死は届いていなかった。

そして劉備の夢枕に関羽が立つようになり、馬良・伊籍、そして上庸から駆けつけた廖化もたどり着いてからようやく事の次第が明らかとなっていく。

関羽の刑死が届いた時、劉備は叫び声を上げて倒れた。劉備は落ち着き国中に喪に服すように伝えた。


神となる関羽

曹操関羽の葬儀以来後、頭の病が酷くなり、目を閉じると関羽の姿を見るようになる。曹操は居を変える事で気を変えるとし、新宮殿を建てることにした。

その新宮殿に見合う躍竜譚(やくりょうたん)にある御神木の梨の木を切った祟りでさらに頭病みは酷くなり、名医華佗も疑い獄中に入れてしまい殺してしまう。

そして今まで殺してきた数々の亡霊に苦しみ抜いた末、自身も直ぐに亡くなってしまう。

劉備もまた趙雲らの諌めも聞かず、呉へ関羽の弔い合戦を決めてしまう。その際に酒浸りになっていた張飛は玄徳からその報を聞くと関羽の仇討ちをはやめてしまい、部下に寝首をかかれ殺害されてしまう。

玄徳はいきり立ち、呉軍と対峙し合戦し勝ち続けた戦の中、関羽の次男関興は父の仇である潘璋を追ってさ迷っていた時、山荘で関羽の画が祀られているのを見た。

そこに潘璋が偶然やって来て、関興を見て肝を潰し逃げ出す。しかしそこに関羽の霊が現れ驚き、潘璋関興に斬られて心臓をえぐり取られる。その血のしたたり落ちた心臓を関羽の画に捧げ霊を慰めた。

関羽が持っていた青龍偃月刀も潘璋関羽を討った手柄として持ち歩いており、息子関興は父の形見である愛刀も取り返したのである。

やがて蜀軍は劣勢となるや否や、劉備らは白帝城に逃げ延び、章武三(二二三)年四月、病床の玄徳の前に関羽張飛の霊が現れ、「我らは天帝が私どもの信義を喜ばれ、神にして下さいました。兄者と会える日ももうすぐでしょう」と手を取った時、玄徳もこの世を去った。

その後も三国時代が終わりを告げても尚、関羽の民間伝承は続く。国家間の紛争によく軍神としての怒れる関羽としても崇められ、現れる反面日本の横浜や神戸などの華僑の関帝廟が祀られているように、商売の神様としても崇められてきた。


演義として語り告げられてきた「関羽」。きっと神となるべく理由がそこにあったに違いない。三国時代二一九年からこの現代まで続いている神話は、今日死後怨念の権化となり、蘇ってまで憎むべき者に祟りを加えてきた神としての関羽

この1800年以上も語り続けられた不思議な力と魅力を持つ関羽神』の力に我々も崇め奉るべきではないであろうか。


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