横山光輝三国志 名医 華佗
横山光輝三国志の登場人物と言えば、似ている顔のキャラクターが重なって登場する。
例えば関平と姜維(若い頃)、馬騰と公孫瓚、華歆と王平など。楽進なんかは防具を取ると曹操じゃないか。
董卓はバベル二世のヨミに激似だが、よく見ると晩年死に際の曹操にも少し似ている。
その曹操の病死の直接的原因は神木の祟りとも言えるが、より遡れば関羽の呪いである。
関羽が首を斬られてからというもの、その後相次いで英雄が命を落とした。呉の呂蒙、そして曹操の発病である。特に蜀の武将達が亡くなった。
さて、現在新型コロナウイルスが日本列島を感染流行までに至らしめている状況(全国で全幼小中学高校が休校要請)であるが、その新型コロナウイルスが発生した都市は「中国 武漢」。
関羽を討った呉は荊州襄陽の地を手に入れたのだが、この土地こそ今の長江中流域に広がる湖北省武漢市の周辺地域なのである。
(「関」の印の位置が荊州城)
当時、その武漢市の周辺には何があったか?
まず
これは武漢市街地一帯を見渡すことが出来る楼閣。
次に赤壁の戦いがあった古戦場。
武漢から南西約100キロの場所にある。
あとは襄陽市の
ここは諸葛亮 孔明が隠棲していた場所で劉備が三度訪れた「三顧の礼」で有名な地である。武漢市から車で約4時間半のところにある。
そして武漢から車で約5時間の場所に荊州城がある。関羽が築いた荊州古城で三国時代は戦場の要塞として呼ばれ、勝ち負けを決める重要な地点だった。
さらには当時の南郡当陽県長坂で起きた“長坂の戦い”が現在の湖北省荊門市にある。
荊州というだけで三国時代と言えば金も人も物も集まる要衝であった。それが現在の武漢一帯の地域だった。
それでは、曹操の病死に戻ろう。
関羽が亡くなってからというもの、曹操が頭痛やめまいを訴えはじめる。曹操が目を閉じても関羽が枕元に立ち、脳裏に迫ってくるのである。
これに曹操は恐怖した。横山三国志だけを読んでいるとよく分からないが、元々若い頃から頭痛持ちの曹操であった。
そして側近らに「これはいったいどういうことか?」と訊ねた。
側近達の中で曹操に対して本当のことなど言う勇気のある者は誰一人としていない。
側近「洛陽の宮殿が妖怪に占拠されたので、新しい宮殿を建てられた方がよろしいかと思いまする」
そして曹操は新たに建てる宮殿の大工選びに移るのだが、
一人の官僚が洛陽の名工
蘇越は棟梁の材料に 「
そこに大きな梨の木があるのでそれが良いでしょう」と答える。
曹操はこれを聞いて喜び、職人達に木を切りに行かせた。ところが人夫達の斧は木を切りつけることが出来なかった。その木は神木で切ると祟りが起きるとで人夫達も切ることを恐れた。
その報告を聞いた曹操は現場へ行き「なぜ私の職人に木を切らせないのか!」と木に向かって叫び、宝剣を木に振りかざして切りつけると血液のような真っ赤な樹液が飛び散り、曹操に降りかかった。曹操は職人達に安心して木を切るように言い残し、馬に乗り宮殿へと帰る。
その途中、突然の体調の悪化が曹操を襲う。
宮殿に帰った曹操は眠れずに強烈な頭痛と吐き気に襲われ、高熱に悩まされる。
三国時代に神とも呼ばれる伝説の名医がいた。
古代より医者と呼ばれる医学者は皆特殊な技能を持っており、超能力者と呼ばれるような奇跡を起こす人物であった。
まさにそれが華佗だった。
横山三国志ではこうだ。
華佗「脳に病巣がございまする。それゆえ薬を召し上がっても病になんの効果もないのでございまする。方法はひとつ!麻肺湯を飲んで死せるごとき状態にしておき脳袋を切り開き病巣を切り除くのでございまする」
さらに小説“三国志演義”ではどう言っているのか?
三国志演義 第78回
華佗「大王の頭痛は風がもとで起こったものでございます。病根が頭の中にあるゆえ、風涎(風痰)を出すことができず、薬湯をもっては癒すことはできませぬ。それがしは、まずは痺れ薬をお飲みいただいたうえで、鋭い斧で頭を切り開き、風涎を取り除きまするが、これでのうては根治はかないませぬ」
風痰とは?痰が内風とともに擾乱している状態である。
漢方でめまい(眩暈)や手足の蠕動・突然の昏倒・硬直・ひきつけ等の痙攣や動きを伴なうものを漢方でそれを“風”という概念で考える。
また体外から働きかける風を“外風”、体内に発するものを“内風”という。そして「肝氣は目に通ずる」といい、特に「めまい」と「肝」は密接な関係にある。そこでこの内風は“肝風”とも言う。
もともと陰が欠損していれば、陽氣だけが昂って風が起きる。一方脾(内臓)の運化機能が失調すれば湿痰が体内に発生する。さらに情志(こころ)の退化、飲酒、過労、気候などの要素が重なれば、肝風と蓄積した痰がぶつかって“風痰”となる。
痰は風邪に伴われて上昇し、氣血とともに勢いに乗じて上逆し、清竅を覆い突然昏倒し、風痰が経絡に流れ込み臓腑に籠城したりすれば癇病を発生させる。
とあり、曹操はこの風痰に罹ったのである。
現在の脳腫瘍と仮説を立てられたりするが、これはまさに風邪からくる脳症、つまりインフルエンザや現在の新型コロナウイルスといってもおかしくなかろう。華佗が「脳から病根を取り出す」という表現を使っているので、やはり腫瘍のようなものと判断も出来るのだが。
横山三国志に戻る。
華佗は「かつて荊州の関羽が腕に矢をあて、そこに毒がたまった時その腕を切り、骨を削って毒を取り除いて完治させました。大王ともあろうお方がそれしきの手術を恐れられまするか?」と言い曹操を煽るかのごとく怒らせた。
「黙れ!腕と脳と同じに言えるか!」曹操にはこうした医学の知識は無く、頭を刃物で切り開いてどう風痰を取り除くのかまったく理解出来ず「そうか、華佗、お前は関羽と親しかったのか。すると余の病気を絶好の機会と近づき、関羽の仇を討とうと考えおったな!」と言い放ち、左右の兵に華佗を捕らえるように命じた。
曹操は華佗に殺されることを疑わず、華佗を拷問して監獄へ収監してしまうのだった。
三国志 正史では、
荀彧「このような名医はめったに見られません。見捨てない方が良いでしょう」と曹操を諌めた(正史ではまだ荀彧が存命していた。演義では賈詡)。
それには理由があり、実は華佗は曹操が自らの主治医として召し抱えた名医だった。
若い頃から頭を金槌で叩かれたように割れるような頭の痛みに悩まされた曹操は、華佗の投薬治療や鍼灸術などで頭痛を抑えてきたという。だが完治せず度々起きる曹操の頭痛に対しては応急処置だったとも言える。
その曹操の爆弾が爆発してしまった同時期に、曹操が跡継ぎを考えていた曹沖という末子を病気で亡くしており、華佗だったらその命を救えたはずで、その華佗を殺した曹操はとても後悔をしていた。しかも華佗没後、自分の病気を治せる者はいなく、闘病の末に曹操も亡くなる。
その為に曹操の長子 曹丕が魏の皇帝となり、それは曹叡と継がれていくが、後の魏は司馬懿の孫・司馬炎に倒されて、魏は消滅し王朝は晋に姿を変えた。
もし華佗が生きていて跡継ぎが曹沖だったとしたら?
曹操ももう少し命数はあったろうし、曹沖が跡継ぎとなることで魏の王朝ももっと長く続いたかも知れない。曹操は華佗を自らが殺してしまったことで自分の命も終いにし、さらには王朝の命も最後にしてしまったのかも知れない。
ま この華佗を殺した曹操の馬鹿な行動こそが、まるでこの国の宰相“安倍晋三”ではないだろうか。
だからといって安倍が曹操のような英傑だということは決して無い。安倍など凡庸である。
ただ我ら孫の代の日本人が、華佗のような名医を見捨てたことで今世を後悔をしてしまってはならないのだ。
でも華佗は本当に曹操の頭の手術を成功させるつもりだったのだろうか?そこも少し疑念が残る。なぜなら華佗は曹操の目の前で敵将である関羽を治療した話しをしていて、華佗は関羽の腕の手術をしている時に関羽から劉備に通じる正義である「義」を感じとっていたのだろう。
現在の医学であっても脳腫瘍の摘出技術は非常に難しい。いくら神の異名を持つ華佗だといっても当時の医術で、麻肺湯を飲ませて麻酔をかけ、腫瘍を摘出出来たかどうかも疑問が残る。
ならば普通に考えて曹操が言った通り、華佗は曹操を殺害するつもりだったとも考えられる。
天下を乱している諸悪の根源は曹操だと考えていたはずである。
「洛陽の宮殿を妖怪どもに占拠された…」とあるが、妖怪に変化したのは曹操なのだ。ならば華佗の思う通りに歴史は動いたのであろう。
歴史が証明するならば、安倍や麻生など自民の重鎮共、この妖怪共が身をもって新型コロナウイルスの怖さを思い知るべきではないだろうか。
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