kemoxxxxxの日記

kemo cityからの脱出

三国志演義 蜀に見る滅亡の日本

東ユーラシア大陸の三国時代「魏」「呉」「蜀」があったが、今の世界に例えるならば、日本は「蜀」であろう。

ここでの解釈は「三国志演義」であります。


─「蜀」が制定される前には「魏」は曹操が北平、洛陽から長安なる主要な都を抑えており、圧倒的な勢力を誇っていた。「呉」は父孫堅・兄孫策から引き継いだ江南から大陸沿岸部揚州を孫権が安定した国を築き上げていた。

国を作るにあたり「人材」が一番重要になってくる。

後の蜀を築く、劉備玄徳は前漢の中山靖王劉勝の後裔で、前漢の景帝の玄孫にあたる。正当な前漢の血筋を引くものとして、自身の信念を持って国を持たず流浪の将として、盟友らの元へと転々とし、人望を得ていく。それは劉備・関羽・張飛の義兄弟を始め、続々と名士を配下に従えていった。それは徐庶も当てはまるだろう。

司馬徽は劉備に「「伏竜」「鳳雛」いずれかを得れば天下を安んずることもできよう」と言った。

曹操が「一体劉備の参謀はだれか」と問うたところ、程昱が「あれは徐庶でございます」程昱は徐庶の母を人質にとり偽手紙で曹操の元へ行く。去り際に徐庶は諸葛亮を推薦し、「伏竜とはその諸葛亮。鳳雛とは龐統でござる」と言い残した。

結局徐庶は曹操の策略にかかり、劉備の元を離れやむなく「魏」で一生仕えることになったのだが、彼は曹操の為には一切働かなかった。

その後玄徳は諸葛亮孔明の元へ出向く。「三顧の礼」である。

孔明は賢才ながらも出世には興味がなかった。その孔明を劉備自身が三度も赴いた上に劉備に手を貸すのです。

その後国を持てずにいた劉備は水を得た魚の如く新野から荊州の一部領地を仮に得ることとなる、その後孔明も加わった「赤壁の戦い」で呉軍と協力し周瑜と呉の水軍は魏の曹操を敗走させた。

劉備は動く、次は建国である。天下三分の計を唱えた諸葛亮は劉備に「蜀」を作ることを進言する。しかし玄徳は蜀に劉璋が土地を収めていたことで、民衆への気遣いから動こうとしなかった。

劉璋の配下張松が「蜀」を曹操へ開け渡そうと策を練り、魏へ向かうが相手にもされず、曹操は張松が思う程の器の人物ではないとわかり、魏を去り荊州の元へより玄徳に会う。張松の話しを聞き玄徳は益州へ進軍する決意を固めた。


蜀建立

この時の玄徳は最高潮だった。五虎将軍も健在で荊州では関羽が守っていた。蜀は劉備の支配下に治められて、蜀の皇帝を名乗った。しかしこの益州での戦いでは要の軍師だった龐統が戦死し、数々の名将を失くしたのは人材不足の蜀にとっては痛かった。

そして、この荊州の地が災いとなる。

孫権側からは蜀を建国したならば、約束通りに荊州の地を返すようにと覚書をしていた。しかし玄徳は返さない。絶対に返さない。

関羽が魏に進軍した際、呉の呂蒙らは関羽の居ないスキに荊州城に進撃。関羽は追い詰められ、孫権により子の関平と共に打首となる。

その死は玄徳を狂わせた、「関羽の仇を討つべく、呉を攻める」と言い出した。「魏の曹丕を討つなら大義が立ちますが…」孔明や趙雲と説得しようとしても聞かず、弟関羽の仇討ちに呉へ進軍することになる。だが大酒をくらい悲嘆していた張飛も、我勇みと参戦。しかし目下の者に厳しく当たるのが災いし、就寝中に殺されてしまう。

桃園の誓いを立てた弟関羽、張飛をなくし、もはや玄徳による私情の為の戦となった。序盤は圧倒的な玄徳軍の攻勢だったが、馬良が「呉の使者が共に魏を滅ぼし天下を分け合いたいと申してございます」と進言した。玄徳は「それはならぬ。まず呉を滅ぼしてから魏をとるのじゃ」と言われ、玄徳の陣を出ると「戦とは勝ちすぎてはならぬ、勝ちすぎては恨みが残る...」馬良は言った。

そして玄徳は聞かず進撃の手を緩めない、しかし呉軍の陸遜にしてやられ、玄徳は白帝城に追いやられ、孔明以下諸将に後のことを託し息を引き取った。

玄徳の遺言はこうだ、「もし我が子に才が無い場合は君が帝位について欲しい」と諸葛亮に言い残した。かくして孔明は先帝の意志を引き継ぎ「魏」の討伐を決心するのである。

諸葛亮の北伐は5度にも及んだ。それは全て負け戦であった。執拗なまでの孔明の北伐。やがて孔明の寿命を迎えて、姜維一人北伐へ行くも、国内は統治出来ていなかった。国内を守っていた忠臣は亡くなってゆき、姜維らはまだ戦っていたのにも関わらず、とうとう愚帝劉禅は無条件降伏をして蜀を魏に明け渡してしまった。売国だ。まさに売国奴だ。


世界から狙われた日本

明治以前幕府時代、西欧諸国が乗り込んで来て奴らは言った「何故ここの民衆はこんなにも平和に暮らしているのか?」とびっくりしたという。

しかし倒幕され明治が始まった頃から、西欧文化が浸透し、もう日本は西欧から睨まれていたのだろう。

何故日本だけが?!何故日本だけが?!幸せなのだろうか?平和なのだろうか?そんな西欧諸国はどんどん東アジアを植民地化していった。日本も何もしなければ欧米の植民地になっていただろう(現在は米国の植民地)。

だからあの大東亜共栄圏を広げる戦争は間違っていなかった。支那や朝鮮、東南アジア諸国を欧米列強から守ったのだ。

しかし日本は戦争に負けた。勝てば官軍負ければ賊軍。しかしだ、現在の今でさえも国連憲章で日本は敵国条項に入っている。あのドイツが敵国条項から除外されたのにだ。

先のカジノ法案にしても、水道民営化、種子法廃止、秘密保護法、共謀罪・・・全て悪法。将来に必ず禍根を残す。

一体始まりは?

小泉純一郎

米国の犬とは知らずに選挙で当選させ、悪法を次々と通していった。ポピュリズム化させられた民衆は「痛みなくして改革なし!」などのサルでも分かる簡単なフレーズで大衆を扇動し、今現在でも腐れきった政権による政治は続いている。

痛みを得て、結果何を得た?元小泉首相?

そして、今のうのうと出てきて小沢と手を組む?原発ゼロ?息子進次郎も油断ならない。

郵政民営化、個人情報保護条例、韓国ビザ免除、地方公務員の国籍条項廃止、新自由主義的政略による医療制度改革、派遣法改正案...数々米国の年次改革要望書により、小泉が自民党の派閥を解体し、安倍晋三という独裁者を作ってしまった。

年金機構など海外、米国に金ばらまいてるだけではないか!内閣機密官房費は?特別会計は?追求しない野党。何故か、それは野党も叩けばホコリが出るからだ。

ゴミの与党、クズの野党。

国会議員もゴミクズだが、官僚はCIAの言いなり。

国民も見て見ぬふりの事なかれ主義。

同志を集めていけば、私は立ちますよ。黄巾の乱しかないでしょ。この国に三権分立はない!

しかし政治家と官僚、いくら文句言ったってそれは私達の鏡。私達大衆が変わらなきゃ、この国は絶対に変わらない。


最後に

諸葛亮が費禕が蒋琬がこの世を去って、劉禅は宦官を信じ酒色にふける毎日だった。劉禅の側には常に黄皓という宦官がいた。裸の王様で戦や国のことに関しては全く興味がなかった。酒池肉林の日々である。

孔明の後継者であった姜維は、黄皓を後漢末の十常侍(後漢末に散々悪行を重ね専権した宦官十人)に例えて激怒し、非難する。

しかし劉禅は「宦官の一人くらい、いかほどもできまい」と庇っていた。そして遊び続けて国は滅んだ。

そして蜀の皇帝劉禅は洛陽へ移送され、司馬昭は「酒色に溺れ、国を乱したので誅殺する」と言われ劉禅は真っ青になるが、あまりの愚直さで命は助かる(ん?天皇陛下に似てないか?)。他の宦官や劉禅派は殺された(天皇陛下じゃなかろうか)。

安楽公に命ぜられ、住居と棒給が与えられた。魏の音楽にも、蜀の音楽にも楽しそうな劉禅を見て、司馬昭は腹心の賈充に、「なんと情けない男であろうか。これでは孔明が生きていても、どうしようもなかったであろう。まして姜維では」と語り、劉禅に、「お国が懐かしいでしょうなぁ」と言うと、劉禅は、「ここが楽しいから、蜀を思い出すこともありません」と答えた。見かねた郤正が手洗いに立つ劉禅を追いかけ、「何故あのようなことを。『蜀には祖先の墓もあり、一日とて忘れたことはありません』と言ってお泣きになれば帰して貰えましょうぞ」と智恵をつけた。

戻った劉禅はそのままその通りに言い直した。すると司馬昭は「郤正の言葉に似てますな」と言うと、劉禅はぱっちり眼をあけて「いかにもその通りです」。

これには司馬昭、魏の将達も大笑いし、劉禅はその愚直さに警戒されずに済んだ。こうして劉禅は蜀の国を滅ぼしたが、その身は晋の泰治七年にこの世を去るまで八年間のんびり暮らしたと言う。


まさに「日本国演義」今や日本は小国となり欧米列強、さらに中国とロシアという脅威に晒されている。同時に世界は演義であり、劇場である。

自由愚民主党、以下愚民党野党、腐れきった官僚の中から「諸葛亮」や姜維などの賢人が現れなければ、日本は「蜀」の道を辿るだろう。

☆本日もご訪問ありがとうございました。