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三国志演義 関羽神・1

三国志の演義に登場する関羽について思いを馳せたいと思います。あくまでも「小説」の話であります。三国志なので三回に分けてお送りします。考察は最後にて。

まず、正史なんてものは正統な歴史であって、正確な歴史ではない。正史であっても嘘や間違いなど沢山ある。だから私個人としてはこの辺あまり拘らない。近代国家の歴史観を見ても全くデタラメだったりする。

「 i f 」があったほうが現実より遥かに想像力を掻き立てられる。小説にしても、漫画や映画にしてもノンフィクション(事実を基に作られた作品)の方が面白い。

関羽 字は雲長。

(関帝と呼ばれる神格化された関羽。)

河東郡海良県の人。身長九尺、髭の長さ二尺。顔はくすべたナツメのような色。唇は紅をさしたように赤く、切れ長の目に蚕のように太い眉で堂々とした風貌であった。

関羽と聞けば中国全土においても、世界いや、ことに日本においては最も人気がある人である。

何故なら、中国大陸、韓国、台湾、マレーシア、ベトナム、日本(函館市函館中華会館、横浜市、和歌山県、京都、神戸市、大阪市、長崎市、沖縄)に関帝廟(かんていびょう)があるからだ。

(解州関帝廟:山西省)

関帝廟とは関帝(関羽・関聖帝君)を祀る廟。孔子廟もあるのだから、それ以上に関帝廟は世界各地にあり、関羽がいかに神とされているのは訳があるはずだ。

それは演義に限って関羽だけが、とても素晴らしい表現が多いからである。

関羽は武勇・義勇の面においては数々の武伝がある。劉備は偽善者のようになっていたり、諸葛亮などは魔術師のように描かれたり、張飛においても怪物のようにされている。

そこが関羽の描写のすごいところである。特に関羽と曹操との二人の「義」が、桃園の誓いを立てた主君劉備、弟分張飛より以上思わせる因縁となっているからだ。

関羽の颯爽たる武将としてのデビューは曹操から始まり、関羽の死の最後は曹操で終わる。

それは曹操が関羽に一目惚れしたところから始まる。190年(西暦)、都洛陽を制圧し暴政のかぎりを尽くす董卓に、曹操は檄文を発した。それに各地の群雄が続々集合し、袁紹をトップにした董卓討伐連合軍が結成された。

このとき劉備、関羽、張飛も北平の太守公孫瓚について、連合軍に参加する。しかしいざ合戦となると、董卓配下の猛将華雄に歯が立たない。江南切っての剛の者、孫堅(孫権の父)も敗走し逃げ出す始末。

袁紹が「わしの自慢の猛将、顔良と文醜が到着しないのが残念だ」といった。

そんな困った連合軍の大将達の前に歩み出たのが、関羽であった。

「それがしが出陣して華雄の首を取り、御前に献じましょう」

全体協議の元陣幕内の将軍達がざわめく。

袁紹が「あれは誰か」と訊ねると、公孫瓚は「劉玄徳の義弟関羽申す者」と答えた。袁紹が身分を訊ねると馬弓手をつとめてると言った。

袁術が大声で怒鳴り散らし、関羽を追っ払うよう命じる。

しかし曹操が諸将を諫め、関羽に熱い燗した酒を一杯つがせ飲ませてから出陣させようとしたが、それを断り「酒はそのままにしておいて下され、それがしはすぐ戻って参ります」といい出陣すると、酒が冷めないうちに簡単に華雄を討ち取ってみせ、その首をポンと投げ出してみせた。しかし袁術はうるさくケチをつけるので、公孫瓚の陣屋にまわり曹操のもてなしを受けた。これが、曹操が関羽に一目惚れした時だった。

曹操は人を見る目が鋭く、傑出した人材は必ず口説いて配下にしていた。だから魏の名将・猛将・知将は綺羅星の如く勢揃いだった。

そして関羽も我が配下に欲しいと思っていた。

その日は来た、徐州で曹操に反旗を翻した劉備は曹操軍の猛攻撃を受け、関羽と劉備は離れ離れになった。関羽は劉備の妻子を護衛し下邳にて取り残された。曹操は関羽説得に張遼を送り、張遼は誠心誠意の説得につとめた。関羽は「漢の皇帝に降るのであって曹操ではないこと」「劉夫人らに日給を与え、指一本触れさせないこと、そして門内も立ち入り禁止にすること」「劉備の所在が明らかになれば、曹操の元を辞する」などの3つの条件を出し、これに答えられなければ、降参しないと言った。

曹操は難色を示したが、張遼は「劉備以上の恩愛を与え、雲長の心もいずれ丞相に必ずや従いましょう」と言ってみせた(これには呂布の配下であった張遼が関羽によって命を救われたという恩義もあった)。曹操は条件をのみ、とうとう義によって曹操に降るのである。

以来曹操は親愛の限りを関羽に尽くしたが、関羽の劉備を思う心を変えることは出来なかったのである。献帝は関羽の髭を褒めて「美髯公」といい、それが通称となった。さらに呂布の愛馬だった赤兎馬を与えると「これで兄者の元へとすぐに駆けつけられる」といい曹操は後悔した。

そして袁紹軍勢と白馬の戦いで曹操軍が戦況不利に陥った時、関羽は青龍偃月刀を引っ提げ、袁紹自慢の猛将顔良と文醜を討ち取り、これまた曹操の置き土産とした。

これにもしっかり伏線がある。先に遡れば曹操と関羽の出会いの董卓討伐連合軍の時に、袁紹は自慢の猛将顔良、文醜の名を口にしていたのである。こうして演義の中では前後の叙述が共鳴し合うべく運命とは必然といったものである。

袁紹の元に劉備がいるとわかると、関羽はいよいよ劉備の元へ行こうと曹操に暇乞い(別れの挨拶)しようとするが会おうとしない。あの張遼も。仕方なく手紙を残し、倉に封をして、赤兎馬に夫人を乗せ共に許都を飛び出したのである。

さて、関羽の命はいかにして...

次回は「五関に六将を斬る」からです。

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