横山光輝三国志 諸葛亮孔明 8
ーブロン絶賛断薬中23日目ー
前回より
続き。
いよいよ蜀軍と魏軍の大決戦が始まる。
孔明が一番力を入れた第一回の北伐。
因みにワシは蜀推しですぞ!(๑´罒`๑)
さてさて…
魏王はまず曹真のもとへ五万の精鋭を送り、司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)は張郃(ちょうこう)を先手として二十万の兵を進発させた。
張郃は魏の将の中でも能力は抜きん出ていた。
司馬懿「わしが孔明の立場ならまず子午谷(しごこく)より真っ直ぐ長安に攻め込み、とっくに長安を乗っ取ったであろう、孔明とてそれくらいはわかりきってるはずじゃ。だかなぜ孔明がそれをやらなかったか…孔明が我が領地の地理を深く知らぬためじゃ、万一の危険を恐れたためじゃ」
司馬懿「今までの孔明の戦いぶりを見ているといかなる場合も絶対に負けない不敗の地をとって戦っている。察するに孔明は斜谷(やこく)へ出て郿城(びじょう)を奪り、それより長安へ攻め入るつもりであろう」
それに張郃は唸る。
やはり孔明は魏への進路を詳しく知らずため、わざわざ遠回りな作戦しか執れなかったのではないだろうか?
仮に街亭(がいてい)を守りきったにしても、兵糧に困り長安の裾野までさえも行けなかったんではなかろうか。
だから司馬懿が言った通り、魏延の言った通り、子午谷から攻めるべきだったんだと思う。
安全な戦争は無い。
地理を深く知らぬとはいえ、電撃作戦でも行えば、蜀軍は長安は奪れたと思う。
しかし、さらに問題を言えば長安を奪ったその後のことだが………とてもじゃないが統治は難しい。
どの道、蜀の国力で諸葛亮を持ってしてでも、魏を討ちすんなりと長安〜洛陽へは無理な話しだったのかも知れない。
蜀と呉が組めば対抗出来たかも知れないが、何せ孫権が動こうとしない。
だから無理だったんだ、うん(。•́︿•̀。)
果たして、司馬懿は曹真(そうしん)をも手玉にとり作戦を実行させる。
司馬懿の作戦はこうだ。
司馬懿「秦嶺(しんれい)の西に街亭という一高地がある。そのそばに列柳城(れつりゅうじょう)という城がある。二ヶ所は漢中の喉元にあたる要害じゃ」
司馬懿「孔明は曹真を甘くみて、まだここまで兵を回しておるまい。我らはそこを突くのじゃ。食糧を断たれれば隴西(ろうぜい)の諸都も安泰でなくなる。孔明は漢中に逃げ込まざるをえまい」
と張郃に秘中の秘をあずける。
司馬懿は張郃に街亭を奪れば、蜀軍の兵糧の道は寸断できるだろうとの考えだ。
その頃、祁山(きざん)の孔明の元にも早馬が次々と駆け込んでいた。
今、祁山一帯の山岳広野が魏・蜀の運命をかけた戦場にかわろうとしていたのだった。
いよいよ、第一回蜀軍の敗北が迫ってきた。
あの街亭の戦いである!
孔明は早速諸将を呼び、話始める。
孔明「司馬懿のことじゃ、街亭に目を付けるとみた。あそこは我らの大切な食糧補給路。あそこを奪られれば我らの食糧は一月もつまい」
孔明「街亭は我が喉元に等しい、一刻の猶予もならん、誰かにこれを守らせなければ」
馬謖(ばしょく)が前に出た……(*_*)
馬謖「それがしも丞相のおそばにあって兵法を学び、体験いたしました。それを役立てさせてくださいませ」
この時孔明は悩んだんだろうか?
孔明自身馬謖は馬良(ばりょう)の弟でその秀才ぶりは、小さな時から知られていた。孔明もその才能を愛していた。
馬謖「もし過ちがあったらどのような軍罪に処されるとも決してお恨みいたしませぬ」
ここまで言われたら孔明もどうしようもないんだが、若輩者馬謖を大将につけるのは如何なものか?
馬謖も勇んで立候補したのは、まだ大して手柄を立ててない、自らの焦りからだったのだろう。
孔明の人選の決定的な落ち度をここで見ることになる。
そして王平(おうへい)を副将につけた。
王平は元々魏の将だったが蜀に就く、俺なら冷静沈着で魏を知る王平に大将を任せるだろう。
そこは孔明お得意の外様だからか?
あと将としての格が違うからだろうね。
この発言がポイント、馬謖にプレッシャーをかけたのは間違いない。
馬謖は喜び勇み二万五千の精鋭を引き連れて街亭に向かった。
ですよね?孔明さま!ですよね?
悩んだ挙句、高翔(こうしょう)に、
「烈柳城という地がある、そこに一万の兵をもって出向き街亭が危き時はすぐ救援に向かえ」と指示を出す。
孔明は人選に好き嫌いが激しい人物だと思う。
自分で動く分には滅法強いが、人を動かすのは下手のようだ。
やはり魏延は噛み付く!
孔明「先手に進んで敵を破るは武将の役目じゃ。今お主に街亭の後詰めを命じたが街亭は陽平関(ようへいかん)への大切な道筋をつけを押さえる要所。ここを奪られると我が軍の息の根がとまる。ここは都督(ととく)の役目じゃ、軽く考えてはならぬ」
単細胞な魏延は納得した。
なんとな( ゚Д゚)、魏延は都督まで登り詰めてたのだ!
魏延さま、流石でございまする。(`_´)ゞ
趙雲と鄧芝には、
孔明「お主たちはそれぞれ一軍を率いて萁谷(きこく)に出よ。疑兵の作戦じゃ。魏軍に出あえばあるいは戦い、あるいは退いて敵兵を驚かせよ。わしは自ら大軍を率いて斜谷より、一路郿城を襲う」
こうして趙雲 鄧芝は萁谷へ向かった。司馬懿に対して孔明もまた万全の手を打ったのである。
こうして最大の転換期、街亭での馬謖の憤懣やるかた無い戦いぶりをこの後、思う存分見せつけられることになる。
諸将の中で街亭を守らせるのは、姜維、趙雲、魏延、これらの武将しかないだろう。
対して手柄を立てていない、せめてもの馬謖に対する孔明の気持ちか?
いや、そうではない。馬謖の戦略があまりにも荒唐無稽だったのだ。
馬謖が手柄に焦っていたのは間違いない。
孔明は第一回北伐、その後も執念の北方遠征を続けた。
しかし、一番に兵站補給の問題が重く圧し掛かったに違いない。
長安は遠く、潼関はもっと遠い。
何から何まで物資不足だった、
ミッドウェー海戦の敗北を思わせる。
諸葛亮は六度も北伐を行い成功することなく終わった。
それには理由があり、「出師の表」に示している。
「北のかた中原を定め、漢室を興復し、旧都に還る」
魏を滅亡させ、洛陽を都にし、漢王朝を継続する。
これはしかし無理に等しい、
中原どころか潼関の東に出ることさえ難しい。
ならば諸葛亮はどういう思いで軍を率いて北へ向かったのか?
二つある。
一つは、蜀国の存在理由を示すこと。
蜀は陳寿が呼んで以来国名になっているが、本当なのは「漢」である。
つまりこの国の建前は「我が漢は、天下唯一の合法政権である」
だから蜀は動かずにいられないのである。
もう一つは、北辺の不安の解消である。
魏が動けば必ず北から攻めてくる。
だから蜀の北の勢力範囲、漢中、陽平関は押さえたいのである。
さて僕が納得いかない諸葛亮が魏延の提案を退けたことに対して、ようやく納得出来た記事を見つけたので書こう。
諸葛亮が西へ行ったことについて、
王夫之(おうふし)が、『読通鑑論』(どくつがんろん)
で要旨つぎのように言っている。
(文中「公」は諸葛亮)
《魏延が子午谷からまっすぐ長安を衝きたいと請うた。正兵である。諸葛は山を回って祁山に出・秦・隴に向かった。奇兵である。堂々の陣をもって直進してその堅を攻めるのでなければ、よしんば秦・隴を得たところで、長安の守りは安泰である。魏が必ず守らなければならぬのは長安のみである。長安が抜けなければ漢は魏をいかんともできぬ。それを、迂回して西へ出、散地を攻めたのでは、魏は、「好きに乗じて弱いところを攻めたのだろう、怖くてこちらへ出られないのだろう」と思うから、敵の意気はいよいよ盛んになり、味方は戦いに疲れるばかりである。
そのうちに援軍も集まり守りも固めるから、長安1つを抜くさえ不可能、魏に勝つなぞ思いもよらぬ。陳寿が「応変の将略は武候の長ずる所に非ず」と言ったのは誠にもっともである。
しかし公は謀を巡らすこと数年、一朝奮起したのである。
それくらいのことがわかってないはずがあろうか。もし危険を恐れるのであれば、民生を犠牲にして出兵などしないほうがましではないか。公の胸中には全局があり、魏を旦夕に滅ぼすのが不可能であること、後主が一隅より起って光復する器量でないことがわかっていた。北伐の軍を出したのは、攻撃には違いないが、実は防衛に過ぎぬのである。その真意は人には言えない。ゆえに魏延の心を服することが出来ず、怨怒を残したのである。
秦・隴は長安の要地ではないが、西蜀の門戸である。天水・南安(いずれも後漢の漢陽郡)・安定は地は険にして民は強く、もしこれを収めて外蔽(がいへい)とすれば武都・隠平は懐抱の中に在り、魏は剣閣を越えて蜀の北を収めることもできねば階・文をまわって蜀の西を衝くことも出来ず、蜀は固め存することができる。祁山の師はもとより公の初志ではない。主闇く敵強ければ図を改めて保蜀の計をなしたのみである。
公蓋しこれを已むを得ざるもの有るも、ただ一々魏延の輩に語るわけにゆかなかったのである》
結局のところ長安を取る気も無し、魏も討つ気無し。
諸葛亮は到底不可能だと分かっていた。
それを王夫之は深く秘めた諸葛亮の心といっている。
王夫之はあくまでも諸葛亮の行動から心中を忖度(そんたく)しているに過ぎない。
にもかかわらず諸葛亮はあからさまにそれを魏延に語ることは出来なかったのである。
なるほど、そうだったのか…
と、思い知らされた。
さぁ、次は街亭の戦いへと移る。
続く………