母のつくるベッドを思い出す
─ 居室清掃の作業時間が少なくなり追い込まれた。
中腰でシーツを張りながら伸ばしている時、シーツがうまくまとまらずに隠せば見えないと思って、無造作に折りまとめたシーツの端をベットパット下へうまく潜り込ませて、一氣に仕上げようとした……
亡くなった母が今生きていたら85歳。
(母が56歳の時。石狩浜海水浴場にて)
老人ホームにご入所されている高齢者の方々は90〜100歳まで、80代は元氣でざらにいる。
職場の先輩にミヤコワスレをいただいて飾っていたところ、「母のことは忘れてしまったなぁ〜やっぱり、いい事かもしれん。」と思ってたけど、夢にも久しぶりに出てきたりと花の効果なのか?
母への想いが溢れ出て、2人で過ごした夏の暑いあの日が蘇ってきた。
引き金になったのは、この前の忙しいシーツ交換の際に思い出した、ベットメイクである。
母は札幌パークホテルの客室清掃係でベッドメイクをしていた。
(平成7年は母が60歳の時)
あの頃のパート時給は420円。朝8時に出て、夕方16時頃帰って来ていた。実働は5時間位で残業もあった。
ベッドで数えてて、1日の作業数を「明日は10個やらなきゃなんない」とか言ってたっけか?
つまり1時間で2〜3部屋はこなさなければなく、母は一部屋を1人で行い、リネンとアメニティもやる。すべて清掃し終わった後に「点検者」と呼ばれるホテルの従業員が粗探しをする。
綺麗な客室清掃をして速くて、客からのクレームもなければ文句はなくスムーズに一日の仕事が流れる。
でもどんなに丁寧な仕事をしても、点検者は母の掃除したばかりのベッドの縁を人差し指を滑らしてチェックし「埃が落ちてる」「髪の毛が一本落ちてる」とかでケチがつけてやり直させた。
点検者に好かれる奴はいじわるはされない。
残念ながら母は点検者に氣に入られなかった。
仕事から帰ってきた母は職場での愚痴を俺たち兄弟2人に毎日ぶつけていた。母は聞いてくれてると思って真剣に話していたが、正直聞くのが辛くて聞き流していた。
やがて母の独り言になっていた。
愚痴の内容はいじめに近い嫌がらせで、母はボヤきながらいつも「悔しい」と怒りを滲ませながら泣いていた。
母は上からいくら急いでやれと言われても手を抜けない性格。それが点検者からは気に入らなかったようで、母のベッドのノルマ数を増やした。
なので母は昼ごはんも食べないで毎日ベッドを作ってた。母のベットメイクの後は点検する必要もないくらい綺麗につくるので、メイドらは仕事もしないで休憩室でお菓子を食べながらお喋りしていた。
その母の馬鹿正直で生真面目な性格から、一部のパート職員達はリネン室に集まり母の悪口を吐いていた。
その場を目の当たりにした訳ではないけれど、母の毎日念仏のように吐露した言葉から想像すると、きっと水も飲む暇もつくらずに、汗だくになり、ベッドをつくり、パリッと伸びた新しいシーツを広げた時、腕から飛び散った汗が純白のシーツの上に落ちる。
背中には汗が乾いて塩になり制服の表面がうっすらと白くなっていたに違いない。
母の父母は戦時中満州に住み、母も満州で小さい頃の思い出を語っていた。
母の父はソ連、シベリアに抑留された。おばあちゃんは62歳で亡くなり、おじいちゃんは67歳で亡くなった。シベリアから帰ってきた時髪の毛が真っ白になってたという。
(母が左で30歳前後、だとしたら右のおじいちゃんは55〜60歳。)
札幌から函館に越して来る際に資料は仕分けしてすべて捨ててきた。「母の少女時代を思い出してもしょうがないもの」と思ったが、こうして振り返るとまた見たくなってくるものである。
母の兄は70代に入ってからパーキンソンになり76歳に肺炎で亡くなった。兄は青年時にヤンキーからジョージと呼ばれ、横浜の進駐軍でボーイをしていて英語はペラペラだった。
(左から3番目が叔父さん)
その妻である母の義理の姉は去年89歳で亡くなった。
この伯母は熱心な立正佼成会の委員で、襷をかけて道場に連れられて母と共に勧誘された。母の兄は宗教には明るくなかったが、うつ病が良くなってきた晩年活動的になり、まだ歩けた頃公団住宅に何度も勧誘に訪れた。
そして兄貴に会っておけばよかったと後悔していた母は、2014年胃癌闘病の末に79歳で亡くなった。
父親とは大阪に行った30歳からはまったく会わなくなり、亡くなったのを知ったのは戸籍の除籍で知る。死去したのは2008年辺りで、父親は母の一歳下だったから72歳くらいだと思う。
父親の親父である宇一郎は60代に胃癌で亡くなっている。その妻ナミは俺がトヨタから帰ってきた時くらいに亡くなっていたから84か85歳。
身内は既に多くが亡くなった。現在札幌には母の妹の叔母(76)が住んでいる。それでも職場には90〜100歳のお方がたくさんいる。
でも元気なそのほとんどの方に“認知”が見られるのだ。
去年亡くなった伯母は“アルツハイマー型認知症”で「グループホーム風車の森」にいた。2014年に母の死を伯母さんへ伝えに、一度ホームを訪れたことがあった。
個室に入るとベッド脇に鎮座する立派で大きな仏壇はいかにも伯母さんらしかったが、お経がとても上手だった人も認知症が進んだせいなのかほとんど読まなくなったと聞いた。
「みや子さん(母)が亡くなった」と話すと伯母は大きな体を丸めてうつむくと、静かに泣いていた。
─ 「同じ仕事するなら綺麗な仕事しなさいな」それは一瞬の出来事であって、作業していた手を止めた。
ふと我に帰ると、俺は背筋を伸ばして深呼吸をしてから、誤魔化そうとしたシーツを一旦元に戻すと、もう一度一からやり直そうとバサッと音を立てて広げる。
首元から滴り落ちた汗がシーツに広がり、その汗の染みた痕に馬鹿丁寧な母の後ろ姿を思い出した。
シーツ交換はずれ込み、遅れた。結局一部屋出来ずに午後にその時間を作ったが、遅くても自分の仕上げた確実な仕事に少し自信を持てた氣がする。
9月からスタートする教室に通い、介護知識と技術の基本を学ぶ。
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