小樽脱出大作戦の巻
メイプルさんに励まされて、やはりあの時の過去は忘れてしまう前に記録に留めていこうと思った。
メイプルさん👇ありがとう😊
今回は北見から小樽に引っ越す話。個人的な日記なので、スルーしてもらってかまいません。
北見の設計事務所ではどこもお払い箱の俺の駄目親父。 とうとう、自分の親に頼るしか無さそうで、しかも親兄弟・親戚関係とは絶縁の間柄、なんとか説得して小樽の奥沢に住んでる親父のBBA(母・なみ)にお世話になることになり、トヨタカローラで昭和58年1月に旭川紋別自動車道を走り、大雪山の峠道を越え、札幌方面へ向かう。長時間のドライブだ。
しかも真冬の時期。あの頃スパイクタイヤで峠では埋まってしまう車が沢山あって、よく後ろから押したもんである。 引越し資金がないので、母さんも手伝いその車で北見から小樽へ何回も往復して荷物を運んだ。
俺の親父は脳の先天性の病気なのか?(病名は不明…母の妹はクモ膜下出血と言ってたか違う!)てんかん症状を度々起こす。いきなり発作が運転中に起きたら大変なことだったって!いつも助手席に乗ってた俺はドキドキしていた。親父から何かあったら「サイドブレーキを引け」と言われていたからだ。
そして、母と俺と弟が親父の実家、小樽の奥沢に来た時「こっち来たってさ、何さもしてやれねべさ。」とBBAは言った。
BBA「住む場所さは貸してやんだけども、お前らさコレから何さして生活すんだ?」
親父は得意の嘘でBBAをだまくらかした。
嫌だったね〜毎日が。村八分にしたらハブられる。その町では苦しくて生きてゆけない。町内会の会合みたいなのが定期的にあって、BBAの家に集まって頻繁に飲み会するんだけど、まぁ親父の悪口ばかり。「榮一の畜生」「榮一は産まなきゃ良かった」‥など。そして喧嘩、言い争い。
なぜ、俺はばあちゃんのことをBBAと書くか? とんでもなく酷い人だったからだ。
BBAはそんな憎い息子の嫁(俺の母)だから、ひたすら母さんをいじめた、毎日の掃除洗濯、天井裏掃除、雑巾がけ、買い物、食事、BBAの世話(マッサージなど)。BBAは当時72歳。金はBBAが持ってる。財布を母さんに一切持たせない。買い物は毎回金渡されてその金額の範囲内で買ってくる。 BBAと風呂に入るのが嫌だった。確か漫画太郎先生のマンガに出てくる、なんこうババァにそっくりですね。
意地悪(いじめ)がひどかった、BBAを中心とする加藤家の兄弟、親戚関係がみんな嘘情報流して、母は非難されていた。毎日のように深夜皆が寝静まった頃シクシクと泣いてる母。 どうにも声をかけて上げられなかった。申し訳ない。
しかし、なんなんだろうね「あの夫婦は仲が悪い」とか「ろくでもない嫁を貰った」だの母さんと親父の町内会ぐるみ陰口のオンパレード。
その度に「お前らがいるからさ、俺さも悪く言われるべさ!」と母さんと親父に説教するBBA。怒鳴り声がうるさくて眠れないのを覚えている。
俺の学校は天神小学校。それが、丁度あの日が今あたりの時期なのね。 朝イチ学校に登校して自分の席に座って、リュックサックから教科書ノートを机の中の引き出しに入れると、中に「チョコ」がどっさり入っていた! 大体10人位の女子から貰ってましたね。モテ期…。その後は終了…。
弟はまだ小学校行ってない時期だったんで、BBAに畑とか行って過酷な労働で働かされたり、ニワトリの飼料をつくらされてましたね。怠けてたらトンカチで叩かれたりと、俺もよく頭を叩かれました。
俺の小学校生活は悪い思い出はなかったと思います。
女子からモテたし笑、なぜか…?
なのに、クソ親父のせいでまた小樽の設計会社をクビ、今度は親父は会社の金を手に出した。原因は金銭トラブル。給料が支払われない事態に陥って、母は会社に何日も通い、社長に土下座して何とか給料を下さいと頼んだ。でなかったら生活は破綻する。BBAは助けてくれないし。
その時、そんな話を聞いたBBAはデレキ(ストーブの火かき棒)で頭をカチ割った。 それでも親父の借金は増えて夜は帰って来ず、飲み屋でのツケは変わらずだった。
とうとう母が小樽を脱出する決意をした
当時、あまり金銭的な事情が、何だかわからなかった自分。
母の妹さんがどれだけ援助してくれたか?
小樽から逃げ出すチャンスは、BBAが朝里川温泉にBBA仲間同士で旅行行ってる間。この隙を逃すと絶対に脱出出来ない!と母さんは言っていた。近所にもバレないように隠密行動をとった。
妹さんは友達の運ちゃんに頼み、夜逃げをタダで引き受けてくれたが、10トントラックでも我が家は荷物が多すぎて1回で運べないことになった。 多くの母の持ってた古くからの大切な貴重品はやむを得ず、小樽のBBAの家に置き去りすることになった(その後しばらくして母は小樽のBBAの家に行き、BBA姉妹親戚らに突然家を出たことを許して欲しいと謝罪をしている。もちろん叱咤激怒されて帰ってきたという話を聞いた)
引越し先は札幌の中央区南21条西8丁目の静観荘っていう、ボロっボロっのネズミが住んでるアパート。 家賃は2万円だったか。母は速攻で就職先を見つけた。仕出しの弁当屋のパートタイマー、時給は420円とかだったかなぁ。
小学校は中央区の幌南小学校。地域性なのか?いじめの問題は全くなかった小学校で、少年野球チームに入ったのもこの頃だ。両隣に柏中学校と札幌南高校。
だからか。札幌南はAランクトップ進学校だ。札幌から東大に行く人は大体札幌南を受験する(現在は分かりません)。
小学校時代でみんな仲良しってクラスはここだけだったなぁ。結局ここも転校してしまうんだけどね。幌南小学校の友達はお別れ会開いてくれてね…中の島に移っても交流はしばらくあったし。
またしても原因は親父。
俺らが札幌に逃げるようにして離れてきたから、BBAは友達らと温泉旅行から帰って来た時、俺らが居ないのでビックリしたらしい。
そして「榮一」(親父)を呼びつけた!どういうことか!と問い詰めたらしい。何故か親父はBBAに逆らえない。 気の小さい男だし。それでBBAは恥をかいたと、町内会で嫁に逃げられた姑は情けないとの噂が広まり、お前(親父)のせいだ!とまたデレキでぶん殴った。
そして親父は世間体から小樽の奥沢のコミュニティにいられなくなり、小樽から追い出される形となった。
困った親父は母さんの居場所を突き止め、また一緒に暮らすことになる。母もこれで何回目の念書を書かせたのか?それでも離婚しない母も悪かったと思う。
母は弁当屋で働き生計を立ててた。ところが親父は「探すから、大丈夫だから、探すから、心配すんな」と言って全く仕事を探してる様子が見られなかった。 弟は親父との朝ごはんは必ず卵かけご飯だったと覚えていて、その話はよく聞いた。
就活で外出しているのか。外出時は必ず背広を来て出る。スーパー行く時でもだ。スリーピーススーツ。そんないつも親父の高すぎるプライドの姿を垣間見た。
そんな時、母が親父の背広の内ポケットを探ったら、大量のハズレ馬券とスナックの名刺が出てきた!これは堪忍袋の緒が切れて、毎夜毎夜の話し合いと言う名の夫婦喧嘩が鳴り止まなかった。怒鳴り声で眠れない。
はぁ嗚呼・・・そして母さんはやっと離婚を決意。親父は了解せず判子を押さない日が続いたが、長い時間と日々の末にやっと判子を押した。
しかし、あの時の俺は離婚は絶対反対!とクズった。何も大人の事情などわからずグズった。幌南小学校から転校したくなかったから。もう友達と分かれたくない!俺は親父と住むつもりでいたが、母さんに無理やり連れて行かれた。
今考えたら、正解だった。ありがとうおかあさん。
嗚呼小樽・・・その後訪れた小樽運河でのシーン。
親父の故郷小樽。母さんも好きだった、小樽。
小樽には「みやこ通り」というアーケード商店街がある。母さんの名前は「みやこ」。運命だったのかね。
ここまでお付き合いいただきましてありがとうございました。