kemoxxxxxの日記

kemo cityからの脱出

続・哀しみの小学校2年生記憶のブログ

やっほーい(・∀・∪)ワン 昨日の続きです。

弟はどうやらほとんど記憶が無く、俺が学校に行く時にヘルメットを被っていたのは覚えていたようですね。

(昭和57年3月登校時drake正面より右端オレンジ色の服)

俺は給食で食を凌ぎ、母と弟は我慢してたそうです。

見かねた大家が玉ねぎとかジャガイモを少し分けてくれていたそうで…。

家賃は確か1万円って言ってたかなぁ?もっと安かったかなぁ?

とにかく全てを滞納して電気も止められましたね。夜はロウソクをつけてました。 一番やばいなと思ったのがボットン便所。食べていないとはいえ、出るものは出る。排泄物が目前に迫る。

このままでは野外で💩をすることになる!極力食べずに💩をしないでおこうと決めました。

学校生活も慣れずに友達も出来ず、いじめられてた訳では無かったんですが、何の理由か思い出せません。夜にパンジを抱きしめて毎日泣いていた記憶があるんです。うーん😓思い出せない。寂しかったのかなぁ?

あ!パンジはこの人です↓

親父は帰ってきません。3ヶ月過ぎ…4ヶ月… 運動会は特に嫌だった…だって楽しくないんです。誰も応援してくれないし、お昼ご飯が嫌でした。見られるんです。周りの人から。



ある日弟が母に聞きました。

弟「ボク達お父さんにゴミステーションに捨てられるの?」

この言葉は母はとてもショックだったらしく、以後も思い出しよく呟いていたので自分も忘れられません。

母はお金の工面で動いていたようです。 働くとなると弟も4歳なので誰かに預けなければなりません(弟はミニカーを食べるくせがあったので)。確かあの土地で働く場所もなかなか見つからず、しかも交通の便も悪く難しかったと思います。周囲は見渡せば畑しかありませんでしたから。保育園みたいのもありませんでした。あの当時母子家庭なんかは珍しいものでしたし。(´・_・`)

そうだ!お風呂。もちろん我が家に風呂はありません。 常磐公園のずーっと歩いた奥に名前がなかなか思い出せないんですが、凄い大きい施設がありましたね。 確か「大連」だったかなぁ…旅館?ホテルっぽかったかな。銭湯の代用で時間を決めて開放していたという記憶がありますね。

今はもう無いですけど、月に1度行けたぐらいでしたかね。楽しかったですよ!お風呂に行くって一大イベントでしたから。あとは台所内の水で身体拭いたり、洗ったりしてましたね。

そして夏休みが来ました。給食にありつけません。一人分一食分増える訳ですな。これには母も困り金策に走り家を空けることが多くなった記憶が。 仕事を探しながらも、市役所に行って相談したけれど門前払いを受けた話はよくしてましたね。とても冷たく話も聞いてもらえなかったと。



ここで『えび』の登場です。

とてもお腹が空いて草とかおんこの実を食べてた記憶が。おんこの実を食べることは親父から教えてもらってましたが、実は有毒なものがあると最近知りました。((((;゚Д゚)))))))あわわ。

そしてとうとう腹が空きすぎて、弟と名前を付けた『えび』達を食べる決意をしました。母は外出中でした。

えび達の名前は流石に出てきませんね。忘れました。 でも僕達はぬいぐるみとかミニカーとか、なんでも名前をつけていたので。つけてた覚えがあります。

多分Aちゃん、Bちゃん…そんな感じかと。

ごめんなさい🙏と言って、沸騰したエビ達を鍋に投入しました。すると暴れてましたが、クルッと固まり赤い色に変化していきました。すごくいい香りが漂ったのを強烈に覚えています。

何匹か忘れましたが5匹くらいはいたと思います。 俺は3匹、弟は2匹…かな?


ŧ‹”ŧ‹”(٭¯ㅂ¯٭)ŧ‹”ŧ‹”「・・・」σ(´~`*)ムシャムシャ



「🦐🦐🦐🦐🦐🦐🍴!?」



俺と弟「うまいね〜(⸝⸝⸝ᵒ̴̶̷ ⌑ ᵒ̴̶̷⸝⸝⸝)✨」

弟はあまり噛んでなかった気がしましたが、俺はよーく味わいました。あんなに美味いエビは食べたことがなかった…

( ᵒ̴̶̷̥́ㅿᵒ̴̶̷̣̥̀ )まさにあれは特上かっぱえびせんの味だった。。。



その後…俺と弟は体調が悪化し、診断は栄養失調で病院に薬を貰い、点滴を受けた。母は短期間のパートを見つけて働き、大阪の親戚の三宅おばあちゃんから、富良野の親戚から、母の札幌の友人から、母の妹から、皆さんに何度感謝しても足りないくらいの温かい援助をいただき、何とか北見の暑い夏を越した。
食事もまともなお米が食べられるようになり、朝はたまご、夜はご飯にかつおぶしかだしの粉をかけて醤油で食べる毎日が幸せでした。

色々あったな…弟のチ〇コが腫れちゃって救急車で運ばれたり。 弟が三輪車に乗り歩道で遊んでた時、いきなりバックしてきた車が弟を轢いてしまい、弟が口から大出血した事件もあった。轢いてしまったおっさんは「なんで周りをちゃんと見てないんだ!」と俺を叱った。

あれは俺のせいかと思って弟に悪い事をしたんだ…とずーっと思っていたが、後々考えると、

(あんたが悪いんだろ!なんで後ろ確認しないでバックした) 俺を叱ったおっさんは車に再び乗り、去っていった。 弟は口が血だらけになり、弟はずっと泣いていた。おんぶして帰った。そんな日もあったっけか…

……夏休みも過ぎて秋がやって来ようとしたある日、突然親父が車で帰ってきた。しかも家には入らず車内に閉じこもっていた親父。

俺は久しぶりに窓越しから親父の姿を見て、ドキドキした。夕食の支度をしていた母はイラついていたからだ。高鳴るワクワク感は何だったのか…多分また夫婦喧嘩が始まるな…と。

エンジンをかけてラジオを聴いていたというのは母から聞いたことがある。野球の試合を聴いてたという。家に入って来なかった理由は、やはりバツが悪く入りずらいといったところか?では何故帰ってきたのか? 母は激怒していたのは間違いなかった。

母は着替えて外出の用意をして「あんたがた、待ってなさいよ、すぐご飯だから」と言って外へ出ていった。



俺は母を静かに追いかけ、玄関のドアをそぉーっと開けて、隙間から外を覗いた。

助手席で母の泣いてる姿を見た。親父はうなだれてた。

しばらく時間が経った後、母は車から降りて何処かへ歩いて行った。

親父は車内にまだ居たままだ。

俺は弟のところに戻って色々話したと思う。




ガラガラガラガラーー…

母が何か買い物をして戻ってきた。何かスーパーで買い物をしてきたようで手荷物を持っている。

魚を焼きはじめた。何でご馳走なのか?何故だ? 不思議な感じを覚えている。

テーブルに何年ぶりかに見た、おかずがズラーッと並んだ。さんまの塩焼き大根おろし。マグロの刺身。ご飯と味噌汁とお漬物が4人分。

あとキリンラガーの瓶ビールと1つのコップ。

母「さぁ、食事よ、あんたがた」

俺と弟はテーブルの椅子に座った。

すると、ガラガラガラガラーーっと玄関の音が聞こえた。

親父の顔を久々に見た。

母「おかえりなさい、あんたどうぞ座って」と言い、父にビールを注いだ。

親父がやっと口を開いた「にいちゃん、ター坊、すまんかったな…」

俺と弟「・・・・・・うん。」

母「・・・・・・。」

4人「……いただきます…(-人-)」

緊張感のある無言が続いて約半年ぶりの4人での食事が終わった。久しぶりのご馳走より親父が戻ってきたことに興奮していた。弟はキョトンとして親父に何か問いかけていた。多分今までどこにいたの?とか聞いてたんだと思う。俺は親父に何も話しかけはしなかった。

母の真意は知らないが、例えロクでもない亭主であっても、ちゃんとした料理を食べさせて、あなたが居なくても私が家を加藤家をしっかり守っていたんだという、母さん自身の尊厳と親父に対するメッセージだったのだろうか。しかし、迷惑かけてすまなかった、申し訳なかったとか、ありがとうとか帰って来なかった理由を母と俺らの前でははっきり言わなかった。母も何故帰って来なかった理由は聞けなかったと言っていた。そんな親父は最低な人間だと思った。




その後、家族の会話も無く、 ─その日は終わった─

母のパートは続き、親父はどうやら1銭も金が無くなったから帰ってきたらしい。しかも借金を抱えて戻ってきた。このブログを書く為に当時のことを思い出す為に、昔の写真や母の当時の記録したノートなど探していた。見つかったのが冒頭のヘルメット登校写真である。そのダンボールの中に親父の直筆で母宛に書いた封筒を発見した。

「加藤 みや子殿」裏には加藤 榮一。

中には“念書”なるものが入っていた。

(※一部のみ)

しかし親父の生活態度は改めることなく貯金の無い我が家の家計は続いた。給料は持って来る様になったので、極貧生活から少し脱出することが出来た。電話料金も電気・ガス・水道・汲み取り・家賃は払うことが出来たが、セントラルファイナンスやらサラ金の借金が膨大に膨れ上がったので返済生活になる。

ああ。汲み取りが凄かったね。溢れんばかりの汚物がバキュームで吸い尽くされ、ボットン便所の穴は空洞に戻った。

冬休みに入る12月初旬、また俺の転校が決まった。 折角仲良くなりかけた友達とも別れの時がきた。 その中でも優しく接してくれた「長南くん」との別れが辛かった(冒頭の登校時の写真のdrakeの左隣の子)。

彼は餞別代わりに電子ゲームを俺に「あげるよ。また北見に来たら一緒に遊ぼうね」とさよならを告げた。 長南くん…(๑o̴̶̷᷄﹏o̴̶̷̥᷅๑)うるうる

親父が転勤になった理由は会社の常務との喧嘩だ。親父はとてもプライドが高い。自分の設計図面に自信を持っていて、どこの設計事務所でも上司と意見が噛み合わない。

以前母と結婚する前に「株式会社加藤設計事務所」を立ち上げたが、失敗して破綻している。

次の転校先は?親父の故郷、『小樽』である。 転校は本当に嫌だった。

その後、また1年もしないうちに小樽から札幌へ引越し(その小樽脱出作戦が修羅場だった。)

その後の家庭生活はどんどん不幸になってゆき、結局母と父は札幌滞在時に、俺が札幌市立幌南小学校小学生4年生の3学期に転校することになるのだが、その時母はとうとう親父との離婚を決意して離婚届に判子を押すように、迫った。

しかし社会的世間体から離婚はしたくないの一点張りだったが、長い話し合いの上離婚が決まり、引越しをして親父とは離れることになった。

母子家庭での生活はどんどん貧しさを極めてゆき、母は俺と弟を食べさせていくだけで精一杯で、母自身の精神と身体は既にボロボロだった。でもその当時の俺の頭では理解して母のことを気遣うことができなかった。

本当にごめんね。お母さん。

また過去の自分を思い出し、決して忘れないようにしたいと思います。

そして散々迷惑をかけてくれた駄目親父へのレクイエムとします。母さんと出会ってくれてありがとう。

ここまで駄文を長々読んでくださいまして、大変感謝しております。ありがとうございました。

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