哀しみの小学2年生の記憶ブログ
最近いかに金を稼ぐかばかり考えて、経済を勉強中だ。
パトリとかっぱえびせんをポリポリやりながら、マルクスの資本論を読んでいた時、ふと思い出したエビの味。
「あのエビの味を思い出したぜ。」
そえば2月12日誕生日。俺の人生の数字のキーワードは「2」 。2月22日ならなぁ…ビンゴ!中途半端( ・᷄ὢ・᷅ ) 俺が小学生2年生、貧乏生活に追いやられてたあの日。 場所は北海道北見市常盤町2丁目…また2。・・・番地まではさすがに覚えてないか… 俺は早生まれで小学デビューは6歳、札幌市白石南郷小学校。つまり現在の自宅からすぐそば。・∀・ふぅーん 戻って来たわけだ (´∀`凸) 〇UCK OFF
そこからなんと転校のゲームセンターあらしby小学館。 そして北見市の西小学校に転校した。
転校するとその子の性格にもよるけど、大抵慣れないから友達できないのね…下手したらいじめられる。授業中、後ろから消しゴムちぎって投げられ連投。ポイ(っ'-')╮ =͟͟͞͞○ブォン
戦ったよ、俺は。善戦した方。喧嘩好きだったし。月寒小学校で因縁つけてきたいじめ野郎と対決した時は、傘で戦って勝ったし。でも負けると悔しいからなるべく争わず穏便に過ごすように努力した。
あと学校生活ではウンコできないのね。何故か当時の不思議なルール。休み時間とか教室から出てトイレで大💩行くと必ずいじめられる。誰かが監視してやがるのよ。スネ夫みたいな奴が。そしてジャイアンにチクる。おしっこは何故かオッケー👌🏻牧場🐎
ジャイアンが「くせー!なんかくせー奴いる!くせー!」 下僕たち「こいつウンコしたー!」取り巻き共「今日からお前名前うんこな」
といじめを取り仕切る1人の男子が、あだ名を💩とつける。被害者は多発した。うんこマン、うんこ太郎とか…。大体1クラスに40〜48人いたから割合的に、いじめられる子は1クラス3人くらい。因みに女子は別。女子は女子で男子に分からない強烈な陰湿ないじめがある。怖っ!
俺は💩しなかったね。うんこなんてあだ名付けられた日にゃ、真っ平御免のきんぴらごぼうだったから。
でも、そうしていつかは腹の具合が悪くなる日が来る。給食後、便意を催すピンチがたまにやってくる。牛乳がヤバかったのに、飲んでた俺がアホ。
俺「やばい、これは激烈ヤバい奴かもしれん」
授業5時間目を終え、「みなさん、さようなら、先生、さようなら」って終礼の挨拶してから学校を脱出💦
耐えた、耐えた。肛門括約筋がハチ切れそうになるくらいに我慢して、腹に余計な振動を与えず内股でスローに歩く。漏らしそうになりながら、脂汗垂らしながら、ゆっくり歩いて帰宅。あれは真夏の暑い日だったよ…
あと家まで少し…あと少しってとこでダムは一気に決壊した。ブボォボォボォボォ・・・
(気持ちよかった…はぁぁぁぁ…)
そう!平屋の借家だったんだけど、トイレがぼっとん便所でね。怖くて。初めての経験ぼっとん便所だったから。 跨ったらあの大きな穴に吸い込まれそうで、落ちそうで、下から「コーホー…コーホー…」ってウォーズマン(キン肉マンの正義超人で100万パワー)、みたいな不気味な音が穴の奥から聞こえてきてさ、毎回トイレしに行くのが嫌だった。なんで人間って💩すんのか?ひたすら悩んだ。
(その💩のことについて、三学期前の冬休み明けの自由研究で発表する計画を立てていたが、また転校してしまうという…。)
ハエも俺の天敵。ぼっとん便所内には常にハエが飛んでる。
「ぶんぶんぶん♬ ハエがとぶ ぼっとん便所のまわりに止まるよ ぶんぶんぶん♬ ハエがとぶ」
今考えたら有り得ない環境!うん!昔は当たり前。今もハエはだっ嫌いだから。虫全般嫌い。でもカブトムシとクワガタとカマキリは好き❤️なぜかね?
トイレでぺろぺろ💩舐めてたハエたんが部屋に舞い戻って、テーブルにみごと着地。そしてハエたんは基本綺麗好きだから(じゃあ💩だめでしょ!)、手と足で体の毛繕いを行う。そしてテーブルに俺らが手をつく。そして夕飯。有り得ない!汚い。
ある時、我が家に危機が襲ったのは親父の疾走。まちがえた!( Д ) ゚ ゚失踪。
釧路?網走?に出張行ったまんま6ヶ月帰って来なかったようだ(後に母から懐かしの回顧録を聞いた)。
そして親父が出張行ったまま帰って来ず、一週間連絡無し。一ヶ月経ってヤバいと思った母さん。身内親戚は札幌に集中してたから連絡もできない。電話は滞納で止められてた。引越したばかりだったから、近所に母さんの友達もいない。あの昭和57年当時、給料は現金手渡しで親父は毎月給料袋を給料日に母に持ってくる。しかしその親父が帰って来ない。
親父は普段から何も喋らない大人しい男で、俺たち兄弟のしつけに関しては叱りもしなかったし、遊んでもくれなかった(ただ酒が入ると面白い人だったが、酒癖は悪い男だった)。そんな親父をこれと言って好きでもなかったし、嫌いでもなかった。だから帰って来ないことに疑問はなかった。なんせ母が大好きだったから。弟も4歳で彼はあまり当時の記憶がないらしい。
因みに親父は一級建築士。親父の同僚は家を建ててたよ。エンジニアったら金持ちのイメージだが、我が家は貧乏だった。その原因は親父の金遣いの荒さだ。親父に金を管理させてた母も悪い。しかし親父は給料袋から半分以上の金を抜きとり、毎晩スナック・赤ちょうちん通い、酒を浴びるほど呑み、タバコに競馬に借金づけ。しかも病気持ちで発作を起こして救急車で度々運ばれてた。
「ママ!今日ツケといてね」決まり文句。建築士だから職業的に信用はあったんだと思う。あっちこっちでツケ。借金は膨らむ。生活費は月に5〜7万円しか家に入れてくれなかったと後に母から聞いた。
母へのDVこそしなかった親父だったが、毎晩の夫婦喧嘩で夜にそのうるさい声で必ず目を覚ましてた。母はいつも泣いていた。うんざりだったよ😑🌀
そうそう、貧乏生活で食べるもの無くてベルマーク集めるの手伝いされて、シートに貼り付けてスーパーや百貨店に持っていって、食料だっけかな?なんかと交換してたの覚えてる。
1ヶ月が過ぎて貯金なんてできないから何とか、母さんはギリギリでやりくりしてたんだろう。電気水道光熱費も家賃も滞納が始まった。2ヶ月目位だったか…母の妹に北見まで来てもらい、金を借りていた。北見駅前での、あの光景が今も脳裏に焼き付いている。忘れられない。母さんのその時の気持ちを考えると胸が痛む。
あ!(๑´罒`๑)
だいぶエビから逸れました。スン↓マセーン↑(゚∀゚)!!!
俺は近くの常磐公園の池にいた小さなエビをいっぱい捕獲してきて、プラスチックの水槽に水草入れて家で飼ってた。薄ピンクの透明がかった色で、綺麗な可愛いエビのピョンピョンハネて泳ぐ姿をジッと見つめ、餌をあげたりして楽しんでいた。あと昆虫が大好きで、毎日昆虫採集。
周りのクラスの子の趣味?まだゲームウォッチが出てなくて、デカっかい家庭用ゲーム機を持って遊んでた時代だ。あとボードゲームとか。我が家はそんなもの買える余裕なかったから、弟とパンジとタンタでぬいぐるみごっこ遊びしていた。
そしてやがて加藤家の本陣は親父によって兵糧攻めに合い、家には食料も金も無くなり、日に日に食べることができなくなってきた。俺だけは唯一給食があったので助かったのかも知れない。
3ヶ月目程に突入した時、限界が訪れた。
次回へ続く…