kemoxxxxxの日記

kemo cityからの脱出

横山光輝 三国志 荊州と関羽

俺の大好きな三国志は横山光輝!

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三国志は横山光輝先生の漫画から入ったんで、架空の人物など登場したりして面白いのです。関策、周倉、刑道栄など、数を挙げたらキリがありませんが。
 
横山三国志は蜀の劉備、孔明を主体に描いてます。魏の武将も好きですが、どうしても蜀の方に想いを馳せてしまいます。
 
なんといっても関羽の死が納得いきません。
 
今回は関羽の最期を振り返ります。
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(劉備を描いた。関羽も描いたが捨ててしまった。また描くか…)
 
圧倒的な魏、安泰な呉、非力な蜀。
 
蜀には綺羅星と輝く武将がいて、五虎大将軍と個々の武将の強さにおいては魏呉に引けを取らないんじゃないか?
漫画ではそう思い見てしまいます。
 
しかし、蜀は人材に乏しかったのが、演義、正史での現実です。
関羽
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張飛
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趙雲
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馬超
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黄忠
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蜀の五虎大将軍(演義での名称)
 
実際は武将より文臣の地位が高く、いかに優秀な文臣の多さが国を支える大きな力になります。
 
諸葛亮が天下三分の計を説き、劉備が蜀をつくり三国となった時期、それでも蜀の人材不足は否めなかったようで…。
蜀では諸葛亮だけが抜きん出ていた。
一に孔明、二に孔明、三、四が無くて、五に孔明である。
結局孔明頼りの劉備陣営。
 
 
魏呉は諸葛亮級の文臣が多く存在していました。
魏の賈詡なんかが蜀に居たら、ダイヤモンド級な人材である。
呉にも張昭、周瑜、呂蒙、程普、魯粛、鬫沢、陸遜など…キリがありませんので。
 
益州を取る前に龐統が現われました。
建安十四年、劉備が荊州牧になった頃。
翌々年、蜀の劉璋の臣法正が「蜀をお取りなさい」と言ってきた。
龐統が「是非頂きましょう」と言ったので劉備も決心した。
劉備が諸葛亮のナンバー2に指名したのが、龐統。
 
蜀で唯一大局型の文臣であった。
 
劉備は諸葛亮、関羽、張飛、趙雲を荊州に残し、龐統、黄忠、魏延の二線級を連れ益州へ向かった。
龐統が落鳳波(演義では)で命を落とさなければ。
ifがあれば…龐統は絶対活躍してた…
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蜀での演義と史実では実際劉備が亡くなるまでは諸葛亮は内政を担当してたらしく、軍師、参謀級は無きに等しかった。
劉備自身が軍権を握り指揮してたようだ(劉備は若い頃から戦争好きだったのもある)
実際劉備の存命中、孔明が軍事に関与した形跡は見られないらしい。
横山三国志では軍師であり丞相であったのだが、その辺混乱するのでやめておこう。
諸葛亮は劉備の死後、軍権を握った。
孔明は確かに偉大であるが、実際孔明は軍事の指揮を取れる人物では無かったと私は考える。
孔明の初めの北伐で魏延が子午谷を通り、長安を攻める案を孔明は却下した。
魏延の案が正論だと思う。
そして孔明は何度も祁山に軍を進めた、実際全てうまくいかなかった。祁山は長安に対して逆方向である。馬謖の失態もあった。
これについても納得がいかないので、また以後ブログに書こうと思う。
 
以上これらも演義、史実、小説、横山三国志と多々あるのでごちゃ混ぜになるから何れも正確とは言えないかも知れませんが。
 
三顧の礼は有名だが、諸葛亮を劉備は心底信用してなかったようだ。だから諸葛亮を常に手元に置いておきたかったらしい。
益州を落としたのち、もし荊州に諸葛亮を置いておけば…また史実が変わったかと。
何故諸葛亮はそう考えなかったのだろうか?
関羽の命も延びたろうに…
もしそういう案を劉備に進言したところで、劉備は聞く耳を持たなかったかもだ。
関羽だけに荊州を守らせていたのは、いただけない。誠にもっていただけない。
だが関羽も勇将、だが政治家でも外交官でもない。荊州は外交的にも重要な土地だった。魏と呉に接する場所、何か起こる発火点でもある。
 
だから孫権を怒らせたのはまずかった。
蜀を取った暁には荊州三郡を呉に返すという約束を劉備は守らなかった。
そこで孫権は呉と魏、手を組んで荊州を落とすという作戦に出た。
 
劉備は成都を本拠地にしよう!と諸葛亮、張飛、趙雲らを連れて皆益州に行ってしまい、関羽一人江陵に荊州を守っていた。
進言する軍師や文臣もいない。
 
 
建安二十四年関羽の最後の戦い。
 
関羽は劉備のから指示があったのか、北上して樊城の曹仁を攻めた。
関羽は樊城を包囲して、曹仁を救援に来た于禁を虜にした。そこまでの戦況は至極順調、だが曹仁は少ない軍勢で持ちこたえ持久戦模様になった。
 
そして油断した関羽は呉の陸遜を甘く見ていた。
陸遜を見出した呂蒙はさすがである。
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呉は魏と共に関羽討伐の作戦に出た。
曹操、孫権共に直々の出陣である。
 
 
 
ここで少し脱線させて頂きます。
実は関羽は周囲の武将からも嫌われていたらしい。三国志 人物縦横談 高島俊男氏の本から引用させて貰うと、
「張飛伝」に、「羽は卒伍を善待して士大夫に驕る」とある。下級兵士には優しかったが文臣に対しては横柄、ないし驕慢であったという。
蜀政権を作ったのは武人だという自負によるものか。この「士大夫」は文人官僚だけでなく他の武将達も指している。
荊州を守っていた頃、本拠の益州に馬超が加わったと聞いて、
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「ワシとどっちが上か」
と諸葛亮に問う。
諸葛亮が「張飛といい勝負、ヒゲにはとても及びません」(ヒゲは関羽のこと)
と返事したら、その文(ふみ)を周りに見せ回ったという。
黄忠が漢中で夏侯淵を破って、劉備は黄忠を後将軍(前将軍と後将軍は同格、関羽は前将軍)に任命しようとした時、
諸葛亮は「おやめください、ヒゲが許さないでしょう」と進言した。
結局劉備は「俺が関羽に説得するから」ということになったのだが(黄忠伝)、
「なんでワシとあの老いぼれが同格なのだ⁈」と怒った(費誌伝)。
関羽は劉備には兄者と慕っていたが、張飛を除く他の武将には冷たかったようだ。
つまり関羽には人望が無かったのである。
そして横山三国志では董卓の配下華雄を討ち取ったとなっているが、史実ではそんな事実は無い。
関羽の戦績として残っているのは二つだけ。
一つは官渡の戦い初期の白馬の戦いで、袁紹の大将顔良を斬った。曹操の配下の時である。
本伝に「顔良が白馬を攻めた。曹公は張遼と関羽を先鋒としてこれを撃たせた。羽は良の麾蓋(きがい)を望見するや、馬にむちうって良を万衆の中で刺し、その首を斬って還った。紹の諸将のよく当る者なく、白馬の囲みが解けた」とある。大将と大将が直接斬り合うというのはめったにないことで、これは確かにめざましい働き。
もう一つは今書いている関羽最後の戦いである。
 
 
 
さて樊城での戦いに戻る。
曹仁が粘り持久戦になっていた。
早く落とさないと魏からの援軍は来るし自軍の兵糧も尽きる。
関羽は江陵の糜芳、公安の傅士仁(実際の名は士仁である)に兵糧を送るよう使者を送った。
 
そんな中、陸遜の計略もあり、関羽の居ない荊州城を呂蒙は楽々と落とした。
 
関羽からの使者は到着するが、糜芳、傅士仁も関羽を良く思ってないから拒否。
荊州城が落ちた今、兵糧など送れんと。
 
そうしてるうちに、呂蒙が江陵、公安を攻め、糜芳、傅士仁はあっさり降伏した。
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北から援軍の徐晃が、偃城関平の陣へ。
関平は徐晃の策にはまり敗走して南へ逃げ、四冢の廖化の元へ。
 
関平は「荊州城が落城したのは流言じゃ!」と焦っていた。
魏軍に夜襲をかけるも、各個で作戦が失敗し関平と廖化は大敗北し、関羽のいる樊城の陣へ逃げる。
 
関平は敗北を報告すると「勝つも負けるも兵家の常くよくよするでない」と。
関羽は荊州城が落ちたのは知らない。
そして魏軍は大軍を率いて関羽の陣へ。
迎え討つ関羽。
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しかし魏軍に追い詰められて襄江の上流向かって敗走しだした。
魏軍の追撃による追撃で多くの兵士が死んだ。
そして関羽はかろうじて襄陽に入る。
 
野営をしていた関羽の陣に使者が。
そこでようやく荊州城が落ちたことを知らされる。傅士人と糜芳の寝返りの報告も受け、
「これでは兄者に合わせる顔が無い」と。関羽は馬良と伊籍に援軍を頼むよう成都へ走らす。
 
曹操は徐晃が関羽を破ったと聞いて、洛陽に帰る。
 
関羽は馬良らの連絡を待ち、荊州街道で野営をしていた。
そこで関羽は呂蒙に詰問の書を使者に送る。帰って来た使者は荊州人家族からの手紙を持って帰ってきた。
呂蒙の返事は素っ気ないものであった。
元々の兵士は荊州人で手紙を見た兵らは夜のうちに半数が逃げ出した。
関羽は「去るものを追っても仕方がなかろう。なぁに、これだけの兵があれば神出鬼没の戦いをしてみせる、そのうち援軍も到着するであろう」
こうして関羽は荊州へ進撃する。
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だが、呉随一の将呂蒙は関羽の行動を読み、周泰、蒋欽、韓当の三将に三方からの出陣を命じた。
兵達の戦意は失っていたので真面な戦いにはならず、またもほとんどの兵達が関羽軍から逃げ出す。
関羽は血路を開く為、無人の麦城へと向かう。
 
前には魏軍、後ろには呉軍、関羽らは麦城に立て籠もる。
 
「上庸に援軍を求めては?」と、廖化が血路を開いて単騎で上庸へ向かう。
 
廖化は何とか追撃を振り切り上庸に到着し、劉封に援軍を出すよう頼む。
劉封は孟達に相談しに行く、だが孟達が援軍を送ることを拒否。
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廖化は憤怒して成都へ向かう。(地味に廖化は永く蜀の為によく働いた。好きな武将の一人)
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麦城では数少ない兵達も関羽を見捨てて大勢が逃げ出した。
残ったのは数百の兵と関平、王莆、周倉(架空武将)。
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麦城の周りには孫権の陣が埋め尽くす。
孫権はどうしても生かして捕らえられないか?呂蒙に相談する。
呂蒙は「良い策があります、関羽に逃走路をワザと与え、朱然らに伏兵を配します」
孫権は「よし!」と実行に移す。
 
援軍は来ない兵糧も尽きる、関羽はこのままでは麦城は落ちる。王甫と周倉を残し、自ら呉陣の手薄い場所を選び、夜に成都へ行くと決める。
 
麦城を出た関羽は見事呂蒙の策に嵌り、関羽、関平とも捕らえられる。
孫権は呉に降るよう説得したが、関羽は呉に降る気はさらさらない。
惜しい武将だがしょうがないと孫権は関父子の首をはねるよう指示した。
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建安二十四年十月のことである。
関羽五十八歳であった。
 
関羽が死んだ事を知らされ麦城にいた王甫は自決。
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周倉も自決した。
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個人的にこの架空武将周倉は好きな武将の一人。横山三国志でのこの死に方はグッときた。
 
呉の孫権は張昭の進言で塩漬けの関羽の首を、魏に送った。
呂蒙はその後、直ぐに病に侵され病死する。
曹操も送られてきた関羽の首は呉の策略だと司馬懿に進言され、呉につき返すのも度量が小さくなるとのことで、関羽を盛大な国葬とした。
 
その後、成都にいる劉備に馬良らが到着し、廖化もボロボロの身で到着する。
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関羽が呉軍に囲まれ孤立していると報告を受ける。劉封、孟達が援軍を出さなかったことにも怒りを見せ、劉備は直ぐに軍を集める。
そこに関羽将軍打ち首の急使が。
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玄徳は関羽の死を知ると嘆き悲しみ、しばらく床に伏せた。
 
そして間も無く曹操も病死した。
曹操、呂蒙両人共に関羽の怨みからきたと噂しあった。
それは横山三国志での話の中である。