横山三国志 諸葛亮 孔明と正史 〈追記〉
三国志が好きな僕としては、
どうも納得がいかない孔明という人物について書かざるを得なく、考えてみました。今回は画は描きません。
劉備の蜀が好きです。
正史では水鏡先生は司馬徳操。
孔明は「あなたは自分が立ち去るので、私をその人に押し付けるつもりですか」と不機嫌をあらわにした。
徐庶は一言の返す言葉もなく立ち去った。
まず横山先生はこう描いている。
孔明の父は泰山で役人を勤め、比較的恵まれた家庭の次男として生まれた。
兄弟は四人、三人は男で、一人は女。
兄「瑾」は早くから洛陽の大学に学ぶ秀才であった。
母も早死にし、父も孔明が十歳にこの世を去った。
世の中は黄巾賊の乱で騒然であった。
長男の「瑾」が洛陽から帰ってきた。
「瑾」は黄巾賊の乱を伝え洛陽まで及んできたことを告げた。
諸葛一家は江東の叔父を頼り、避難した。
この時孔明は難民を眺め、なぜ人間の群れはこんなにみじめに苦しむのかと思った。
そして世の中に偉人が出れば無数の難民は助かるだろうと考えた。
大きな人物が現れないから、小さな人間達が欲望をむき出しにして世の中を混乱させるのだと…
ここで孔明は生き抜く力を学んだ。
そして兄の「瑾」は呉の国に志を求める。
そして叔父の「玄」は戦争に参加するも敗れ死した。
孔明は弟の「均」を連れ敗兵と一緒に逃げ回った。
十七歳の時、大学者 石韜の門をたたいた。
ここには石韜の名を慕ってすぐれた門人が各地から集まっていた。
徐庶や孟建などもその門人の一人であった。
その才は群を抜き二十歳の時には、そこで学ぶこともなくなっていた。
孔明はその歳で山の中にひきこもってしまった。
学問を役立てることを知らず、学問のために学問をする無能な人たち。
論議のために論議する曲学阿世(道理を曲げて権力者や大衆に気に入られようとすること)の仲間から逃げたのである。
そして孔明のもとを訪ねる友は少なくなった。
訪ねる者は孔明の恐ろしいほどの才能を見抜いた者だけであった。
孔明は出世や名誉は望んでいなかった。世の中を統一するような偉人が現れた時に、その人物のために才能や学問を役立てたかった。
孔明は子供の時に見た難民の群れの姿を忘れることができなかった。
万民すべて生を楽しむような世の中を作りたい、そのような世を作ろうとしている偉人を助けたい。
孔明はこの田舎でそういう人物の出現する日を待ち続けていたのである。
以上が横山先生の孔明の出生を描いたものである。よくできている。
ところが正史では諸葛亮は素性のわからぬ男であるようです。
ここが僕の一番の疑問であれこれ調べてみました。
父の名は「珪」とあるようで。
中国での同世代とは一族の系譜の上である人物の曾孫にあたる者たち、年齢は随分違うこともあり、同世代で年上の者は兄と言い、年下の者は弟と言う。
一世代上で父より年上の者は伯父と言い、年下の者は叔父と言う。
一世代下の者は姪(てつ)と言う。
以上の様らしいです。
漫画でも縁が薄い、実の兄ではなく系譜の上で同世代であるという兄のようです。
諸葛一族で諸葛珪・諸葛瑾・諸葛璋が玉偏(たまへん)グループの格上で諸葛玄・諸葛亮・諸葛均が格下グループ、「諸葛亮集」を作る時に、 格上グループの名前を借りたのはいいが、一世代間違えたのではないか?という話しもあるようですね。
なので諸葛亮は諸葛珪の子だというのは疑問に残るんです。
するとやっぱり素性がはっきりしない。
はっきりしなくても人物・能力には関係はないですが、門閥家柄が重視された時代みたいですから、諸葛亮にとっては不利な問題ですね。
建安十二年、有名な三顧の礼である。
そして諸葛亮は天下三分の計を説いた。
荊州には逸材は沢山いる。
劉備は国を持たずとも軍の大将である。
陳寿は「人払いをして言った」と書いている。
だから誰も詳しい話は分からないはずだ。
諸葛亮と劉琦が高楼に登ってはしごを外した。
劉琦は諸葛亮に助けを求める。
諸葛亮は「なんで他人の家庭の事情に立ち入らねばならぬ」と断った。
だが劉琦が自害しようとしたから、それを止め、劉琦に良計を教える。
孔明はそこで一つの話を聞かせる。
春秋時代の晋の献公の二人の子供の話である。
昔、春秋時代の晋の献公の夫人に二人の子供がいた。兄を申生(しんせい)、弟を重耳(ちょうじ)と言った。
ところが献公の第二夫人の驪姫(りき)に一人の子供が生まれた。
驪姫は自分の子供に晋の国を継がせたく、それからは何かにつけて申生や重耳の悪口を献公に訴え続けた。
だか献公は申生も重耳もすぐれた子であることを知っており、話に取り合おうとしなかった。
そこで驪姫は一計を案じた。
春の暖かな日、庭園が美しいからと献公を楼上に誘い出し、自分の着物の襟に蜜を塗り、申生を庭に誘い出した。
すると甘い蜜の匂いをかいだ蜂が驪姫に群がり出した。
申生は慌てて襟を打ったり背中を打ったりして蜂を追い払おうとしたのだった。
これを楼上から見ていた献公は激しく憤った。二人が戯れていると見えたのです。
それ以来献公は申生を信用しなくなった。
一計がうまくいった驪姫はさらに一計を案じた。
前の夫人のお祭りに毒を塗ったまんじゅうを供えたのです。
そして申生に母のお供え物をそのまま下げてはもったいない、献公に差し上げなさいと勧めたのです。
申生は何も知らずにそれを父の献公に差し出したのです。
そこへ驪姫が飛び込み外からきた物を毒味もせずに食べるとは何事かと取り上げ、側にいた犬に投げ与えたのです。
犬はたちまち血を吐いて死にました。
申生がその場で打ち首になったのは言うまでもありません。
それを見た弟の重耳は次は我が身だと悟り、他国に身をかくしたのです。
それから十九年…
初めて世に出た晋の文公、これぞその重耳だったのです。
(この横山先生が書いたエピソード、好きです)
諸葛亮は重耳が国を出て難を逃れたのと同じ結果が得られましょうと劉琦に告げる。
そして、「諸葛亮伝」で言えば「今日上は天に至らず、言は君の口に出でてわが耳に入るのみ」と交わした密談が載っているようである。
歴史において正確に記述されたものなど無きに等しい。
三国志での人物の会話など詳しく書かれているが、その他のことについては大まかに書かれている。
一つに赤壁の戦い。
実際どこで戦ったかも書かれていない。
赤壁が実際の戦いの場所だったのかも分からない。
数十万人が戦い、どこでどのように行われた戦争だったのかも分からないくせに、個々の武将の会話などは詳細に書かれている。
横山先生の描かれ方は好きですよ。
ただ、事実に近いことも知りたいのです。
歴史家達が一つに纏まらない話を作るので、そこはしょうがないのかも知れません。
以上のだいたいのことしか分からず、あとは正確に誰も知る由はない。
魏の記録に残っていないのは、魏が負けたから、そんな汚点となる記録など残すはずがない。
続く…。
☆このブログは横山三国志と正史を見比べただけのことで、共に深く検証したりはしてません。横山先生の漫画を中心に個人的な考えで書いたものであります。
内容については疑問な点があるかも知れませんがどうかご了承くださいm(__)m
(一部修正しました。)
- 参考 引用させて頂いた文庫
- 作者: 高島俊男
- 出版社/メーカー: 大修館書店
- 発売日: 1994/07
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (3件) を見る
- 作者: 横山光輝
- 出版社/メーカー: 潮出版社
- 発売日: 2010/01
- メディア: コミック
- 購入: 1人 クリック: 6回
- この商品を含むブログ (1件) を見る
追記))今日の出来事から。
*パリ同時多発テロで亡くなられた方々に御冥福を心よりお祈り申し上げます。
俳優の阿藤快さんが急死されました。
大動脈瘤破裂だったそうです。
切迫破裂してしまうとほぼ助かりません。
一人で救急車も呼べずに亡くなられたのでしょう。
背中が痛いと言っていたそうです。
早くに病院に行かれてれば、助かったかもしれません。
俳優、食のリポーターとして好きな方でした。
「なんだかなぁ〜」というセリフが印象深いです。
とても残念に思います。合掌( - 人 -)