kemoxxxxxの日記

kemo cityからの脱出

ワルキューレ ヴァルキューレ

映画 ワルキューレ 2008年公開 独・米製作

1944年7月20日ドイツのレジスタンスの英雄達のあの行動。

クラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵

アドルフ・ヒトラー暗殺未遂事件を描いた物語である。

この映画に対するドイツ国民や政治家の反応は強い不快感を表した。何故ならトム・クルーズシュタウフェンベルク役をすることに嫌悪感を抱いた。 シュタウフェンベルクは反ナチ運動の英雄である。彼は敬虔なカトリック信者であったのだが、トム・クルーズはヨーロッパ各国でも宗教として認められていない、カルト宗教サイエントロジーの信者・広告塔であるからだ。

特にシュタウフェンベルクの長男ベルトルトは、この映画に対して拒絶感を示した。

個人的に素晴らしい作品で何度も鑑賞している、お気に入りの映画であるが、確かにドイツの人達の気持ちも分かる。しかしトムとシュタウフェンベルクは生まれ変わりではないか?くらいに二人の外見は似ている。

さて、ヒトラー暗殺未遂事件を紐解いていこう。





1943年敗色濃厚のドイツ軍に 一部の将校達は疑問を抱き始める。 そして彼らの動きは活発化していく。 それはユダヤ人虐殺についても道義的反発をおこす。 軍のレジスタンスの動機は愛国精神であった。 政権転覆の唯一の一つは、ヒトラー暗殺だと。

総統暗殺計画に向け、元参謀総長上級大将ルードヴィッヒ・ベックは軍内部の有志に協力を求める。 一般陸軍局局長フリードリヒ・オルブリヒト大将 中央軍集団参謀長ヘニング・フォン・トレスコウ大佐…以下

ドイツ国防軍の反ヒトラーグループの中心将校らはゲシュタポに『黒いオーケストラ』と名付けられた。

1943年3月13日トレスコウ大佐が作戦を指揮する。 爆薬を仕込んだ酒瓶をヒトラーの飛行機に載せたのだ。 しかしそれは不発。 8日後には情報将校のルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフ大佐が自爆覚悟で挑んだ、展示会での爆破も失敗する。

そんな中、軍のレジスタンスは新たなリーダーを求めていた。 それがシュタウフェンベルク中佐であった。

シュタウフェンベルクは高貴の出で、ヴュルテンベルク王国の一族だった。 敬虔なカトリックシュトゥットガルトの王宮で育った。 生涯を軍に捧げたが、彼は「人道的主義」な人だった。ギリシャ語、ラテン語歴史哲学を学び、当時のドイツ軍では異色の存在だった。

道徳に基づく信念は強固であり、ドイツ軍崩壊の原因はナチスにあると考えていた。

1943年にはシュタウフェンベルクは、さらに昇進してアフリカのロンメル陸軍元帥下の部隊に配属される。 しかしその後4月7日、偵察任務の際に連合軍の攻撃を受け重傷を追ってしまう。 右手の手首から先と左手の指2本をー さらに左眼を失った。

1943年10月シュタウフェンベルクは復帰し、 一般陸軍局に配属。 この時には覚悟は決まっていた。

そしてレジスタンスに賛同する同士ら、 トレスコウ大佐、オルブリヒト将軍らが綿密に作戦を練り、実行責任者となったのが、 シュタウフェンベルクである。

それが「ワルキューレ作戦」である。

ワルキューレ作戦とは? 元は有事における反乱への鎮圧計画であった。クーデターが起きた際にベルリンを掌握するために予備軍を設けていた。それを命令発動する計画案である。 しかし皮肉にもヒトラー自身がこの案をあっさりと承認してしまう。

これを利用してヒトラー暗殺後の政権転覆を狙ったものだった。

しかし作戦の発動には国内予備軍司令官のフリードリヒ・フロム将軍の協力が必要だったが、レジスタンス側には暗黙の了解でどっちつかずの、あまりにも曖昧な姿勢を終始取り続けることに。



1944年6月6日 Dデイーです(ノルマンディー上陸作戦)。

第三帝国は敗北寸前でした。そこでレジスタンスは思う。

終戦に近くなっても暗殺はすべきか?

しかしトレスコウは言った「毎日1万6千人もの人間が殺されている。戦死による死ではなく、ユダヤ人、ロシア人がナチスに殺されている。これを止めるのが我々の使命だ」

かくして暗殺計画は実行され、一国の運命は36歳の将校に委ねられた。



─実は暗殺の実行は延期が続いていた─

1944年7月11日にヒトラーの別荘「ベルクホーク」の会議にも出席。だがその日は内務大臣・親衛隊ハインリッヒ・ヒムラーと国家元帥ヘルマン・ゲーリングがいなかった。シュタウフェンベルクはベンドラー街(国防省)のオルブリヒト大将の副官アルブレヒト・メルツ・フォン・クヴィルンハイム大佐と連絡をとり報告をいれる。

レジスタンスの中心人物元上級大将ベックはヒムラーゲーリングはまとめて一緒に殺害しなければいけないとの考えだった。ヒムラーを生かしておくことで後々のクーデターの際にSS(親衛隊)と国防軍の間で内乱が起こる可能性を危惧していた。

ベックはオルブリヒトに中止を命令した。オルブリヒトはそれをシュタウフェンベルクに指示する。それに対しシュタウフェンベルクは「なぜこのチャンスをみすみす逃す!我々は行動すべきではないのか!」と電話口で言い放った。

1944年7月14日にヒトラーは突然「ベルクホーフ」からソ連に近い東プロイセンの“狼の巣”に移動した。

1944年7月15日に午前、フロムとシュタウフェンベルクはベルリンを発つ。東部戦線へ新しい師団を投入する報告で、“狼の巣”にヒトラーが集まる東プロイセンの会議に到着。この日はヒムラーも滞在していた。しかしまたも何故か会議にヒムラーは出席せず。 再びベンドラー街のクヴィルンハイムに「ヒムラーはなしでも決行したい」と告げる。クヴィルンハイムはオルブリヒトにさらにベック、ヘプナー元上級大将に連絡をするが、将軍達は許可しなかった。

シュタウフェンベルクはクヴィルンハイムに「いつも間違ってる、これはもう僕達で決めるしかない」と将軍達の指示を無視するよう伝えた。 クヴィルンハイムは「いいだろう、やってみたまえ」と言い、オルブリヒト将軍はワルキューレ作戦を発動させる。

しかし決断が遅かった、ヒトラーは既に会議を終えてしまったのだった…一方ベルリンでのベンドラー街のワルキューレ作戦発動による緊急招集は、オルブリヒト大将とクヴィルンハイム大佐は「演習だった」と言い、予備軍による警戒態勢を誤魔化せた。 しかしヴィルヘルム・カイテル元帥が誤報による緊急発動によりフロムを叱咤し、フロムはオルブリヒトとシュタウフェンベルクを呼び「二度とこういうことはするな」と激怒した。なんとか穏便にすませることができた。




時は1944年7月20日 シュタウフェンベルク大佐と副官ヴェルナー・フォン・ヘフテン中尉は再び東プロイセン総統大本営に向かった。午前11時までに総統の“狼の巣”に到着。周囲は厳戒区域のため一度入ると脱出するのは至難の業である。 しかも会議場所は急遽変更になり、コンクリートで囲まれた建物の地下室内ではなく、木造の建屋ですることになった。これも運命を狂わせたひとつの原因である。2つの建物の違いにより爆破の威力が違う。もちろんコンクリート地下室建屋で爆発させた方が力学的により威力が大きい。

2人は爆弾2つを忍ばせ会議に参加する。そこでは予備軍の報告をする予定だった。しかし会議直前にカイテル元帥の副官エルンスト・ヨーン・フォン・フライエント中佐により邪魔が入り、爆弾は1つだけ信管を起動させて鞄に仕込んだ。しかしもう1つの爆弾はヘフテン中尉が別の鞄に入れて持ち出すことになる。ここでも誤算が生じている。

もし信管を起動させなくても2つの爆弾が入った鞄をおいておけば、信管を起動させた爆弾によりもう1つの爆弾も誘爆を起こし、間違いなくあの部屋にいた人物は全員死んだだろう。

13時の会議に参加したシュタウフェンベルクは1つの爆弾が入った鞄をヒトラー近くの会議卓の下に置いた。10分後に爆破するようセットし、電話を理由にその場から離れ退室した。シュタウフェンベルクのいなくなったハインツ・ブラント大佐が邪魔に思い、爆弾の入った鞄の位置をヒトラー寄りからずらした。 これも運命のいたずらだった。

爆破後もちろんヒトラー死亡の確認は取れず、何故なら急いでベルリンに戻り、ワルキューレ作戦の指揮をシュタウフェンベルク自身が執らなければいけなかったからだ。 爆発の音を聞きシュタウフェンベルクと副官ヘフテンはヒトラーは死んだと確信を得て報告を入れた。 報告を受けたクヴィルンハイム大佐はオルブリヒト将軍に伝える。しかし前回の失敗もあり、フロムもベントレー街にいたためワルキューレ作戦の発動は「ヒトラーの確実な死を確認しなければ、実行に移せない」とオルブリヒトは言った。

クヴィルンハイムは「間違っている、今すぐ行動を起こさねば間に合わない。沢山の有志の希望がこれにかかっている!」と説得させようとしたがオルブリヒトはワルキューレ作戦発動のサインを拒んだ。

狼の巣での事件がベルリンでも流れる中、ヒトラー総統の生死は未だに不明でありベンドラー街でも混乱し、オルブリヒトは動揺がおさまらずも「ワルキューレ作戦」は発動しないことに決めた。

オルブリヒトがランチに行っている間にクヴィルンハイムは我慢に絶えきられず、14時間前にオルブリヒト大将の名で幾つかある緊急招集を発動させた。

10時15分にラステンブルグ飛行場に降り立ったシュタウフェンベルクら2人はもうベルリンで作戦は動いていると思っていたのだが、なんとベルリンでは何も始まっていないことを知り、オルブリヒトに激怒する。ヒトラーは死んだんだ!この目で爆発を確認したんだ!」と周囲の目も気にせず大声で叫んだ。

フロムの元に駆け付け、オルブリヒトとシュタウフェンベルクヒトラーの死を伝えるが信じない。

フロムはカイテル陸軍元帥に電話でヒトラーの生死を訊ねた……

すると帰ってきた返事は「総統は生きてる」と。 交信を絶たれた状況でフロムはナチス側に寝返った。

フロムはワルキューレ作戦の発動の命令書サインを拒否した。だが事はもう遅い。オルブリヒトの煮え切らない態度にクヴィルンハイムは16時前に独断で予備軍招集緊急命令は出していたのだから。

フロムはシュタウフェンベルクに自決しろと命じたのだ。 しかし彼は断固拒否する。シュタウフェンベルクはフロムに逮捕を宣言されたが、逆にフロムを逮捕し監禁しシュタウフェンベルクらは「ワルキューレ作戦」を発動させ続行する─

"総統は死去した至急命令を遂行せよ"

命令は絶対遵守です。予備軍を集めたオットー・エルンスト・レーマー少佐は演習ではない事実を知りゲッペルスの逮捕命令を携え、宣伝省に向かった。 ゲッペルスに陸軍総司令官の命令で来たと伝え、ゲッペルスは電話の受話器をレーマーに渡します。

「私の声に覚えはないか…反逆者達を生け捕りにせよ」

それはヒトラー本人の声であり、レーマーは決断しシュタウフェンベルクを逮捕しに動く。レーマーの部隊を利用し、フロムは証拠隠しと保身のために忠誠心を演出する。レジスタンス側は抑えていた中央官庁街も失い、レジスタンス側上級将校らは続々とSSとゲシュタポに逮捕され、オルブリヒト大将も捕まった。

レジスタンス側とレーマー率いる鎮圧隊との銃撃戦が始まり、シュタウフェンベルクは左肩に重症を負う。 そして暗殺失敗から半日が過ぎた午後11時過ぎ、シュタウフェンベルクらは逮捕されてしまう。

フロムはレジスタンスの将校らを自室の執務室に招集させ、独断で軍法会議を開く。レーマーに「閣下“殺すな”との命令であります」と言われるが、

フロムはその後即判決を下す「ベック、貴官を逮捕する。クヴィルンハイム大佐、オルブリヒト大将、ヘフテン中尉、そして…名を口にしたくもない大佐、以上は死刑に処す」

ベックの最期は悲劇だった。フロムに自らピストルを使うことは許されたが、1発目はこめかみをかすめ、2発目でもまだ死ねずにフロムの部下が撃てと命令したのであった。

処刑は真夜中に行われた。 ベンドラーブロック中庭に4人は並ばされ、オルブリヒト大将が銃殺され、次にシュタウフェンベルクだったがヘフテン中尉がシュタウフェンベルクの前に立ちはだかり射殺。

シュタウフェンベルク大佐は「我が聖なるドイツに永遠なれ!」と叫び射殺された。 最後にクヴィルンハイム大佐が銃撃隊に射殺された。時刻は20日を過ぎ21日の0:34分だった。

儚くもレジスタンスの夢は散った。

ベンドラーブロック中庭、シュタウフェンベルクが射殺された場所である。

その後約7,000人のレジスタンスが逮捕された。ローラント・フライスラーによる人民裁判所で裁かれ、そのうちの約200人が処刑された。 処刑方法はピアノ線での絞首刑となり、死に至るまで苦しむとても残酷なものであった。

フロム上級大将も後に逮捕となり、人民裁判により銃殺刑に処された。

またトレスコウ少将は手投げ弾を顎に当て自決している。

そして映画は終わった……

事件後、ヒムラーは「シュタウフェンベルク伯爵家は根絶やしにしなければならない」と言い、 シュタウフェンベルクの妻ニーナは強制収容所へ送られ、子供5人らは引き離されナチスの養護施設へと再教育された。

1945年4月にアメリカ・連合国軍により解放され、ニーナは子供たちと再会できた。

ニーナは2006年4月2日にドイツ南部で死去している。92歳であった。長男ベルトルトは戦後ドイツ連邦軍で陸軍少将になっている。

そうドイツにとってのヴァルキューレとはレガシーである。

こうした事件がドイツナチスで起きた事実である。我々日本人もこうした歴史的事件を、ただ単なる他国の出来事で終わらせてはいけない。


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