高橋 徹
僕が高橋徹の名を知ったのは、中嶋悟がF1にデビューしてモータースポーツに興味を持ち始めてからだ。
元々母がF1を好きで、6輪車のティレルや、John Player Special のロータスなどのステッカーやミニカーが自宅にあり、幼いながら昔のF1が記憶にある。
70年〜80年国内最強の星野一義を抜いて中嶋悟はF1へ行った。
中嶋はホンダの力でF1に進めたのは分かるが、子供ながら何故中嶋なんだろう?と思った。
1987年当時は12歳、情報雑誌も少なく、中嶋がF1を走る前はモータースポーツのTV放送さえ乏しかった。
結果知り得たのが、当時の時代背景(日本企業がバックアップしなかった)にあるという事と、星野自身がF1の道を望まなかったことだった。
中嶋悟も上手いが、速さでは星野一義だろうと今でも思っている。
兎にも角にも日本人初のフルタイムF1ドライバーは、
中嶋悟だった。
しかし二人以上に若くて可能性が高く、速さを持ったドライバーは存在した。
アイルトン・セナと同じ1960年生まれ、F3時代には鈴木亜久理のタイムを凌ぎ、F2で中嶋悟と接戦のバトルをした男、
───── 高橋 徹である。
レーシングドライバーとして初めてサーキットを走ったのは1979年18歳、19歳には単身鈴鹿へレース修行に出る。以降、腕を上げ、ステップアップを繰り返し、4年後に22歳の若さで日本最高峰の自動車レースF2へ上り詰める。
さらにそのデビュー戦で2位入賞という離れ業を成す。
次第に「天才ドライバー」「10年に1人の逸材」と冠されることが多くなっていく。
レースファンにとっては星野一義、中嶋悟、に続く待ちわびたスタードライバーの誕生だった。
高橋徹が命を落としたのは、
星野の二番手で二週目に入った最終コーナーの立ち上がりで高橋徹のマシンはスピン、グリップの限界を超えたリアタイヤが路面から浮き上がる。
ダウンフォースの失ったマシンは木の葉のように舞い上がり、宙で反転し、吸い寄せられるように観客席のコンクリート壁へ激突した。
観客を巻き込んだこともそうだが、悲惨だったのは無防備なコックピット側から激突したことである。
これが生死を分けたであろう、最悪なクラッシュだった。
GCマシンはウイングカー(グランド・エフェクト・カー)と呼ばれるマシンである。
ウイングカーの特性は強力なダウンフォースにある。
ダウンフォースを増大することはマシンのスピードを上げることであるが、コーナリング速度が死と隣り合わせの危険な状態ともなり得る。
マシンの挙動が安定するのは直線であり、ひとたびコーナーを曲がると空気の流れが変わりダウンフォースを得られなくなる。
グリップが全く得られなくなってしまうのもウイングカーの特徴であった。
当時の富士スピードウェイは高速コースで対して鈴鹿サーキットはテクニカルコース。
また富士のオフィシャルは鈴鹿に比べた場合、組織的に劣っていたというのが各チーム、ドライバーの共通した感想であった。
そして富士の最終コーナーはカーブであるにも関わらず、
230km〜250kmを出すコーナーだった。
ここでスピードを乗せるか乗せないかでタイムに差がつく。だからドライバー達は競ってアクセルを開ける。これが非常に危険だった。
世界中の主流サーキットが高速コーナー手前にシケインを作りスピードの減速化を図っていた。
最終コーナーのシケインは鈴鹿サーキットにも設けていたのにも関わらず、富士スピードウェイはシケインを設置しないでいた。
ドライバー達は、幾度となく、富士スピードウェイに対して最終コーナー手前にシケインの設置を要望していた。
最終コーナーの危険性はドライバー達が一番よく知っていたのである。
たらればは無意味な仮定かも知れないが、
ウイングカーでなければ…
ぶつかったのがコックピット側でなければ…
それでも高橋徹が生きていたら…
高橋徹が亡くなってから、しばらく日本のレース界は消極的になったのは確かである。
…生きていたら、中嶋悟や星野一義らとデッドヒートを繰り広げていただろうし、もっと早く日本人ドライバーにF1への門戸も開いただろう。
今もなお、レーサーを目指す若者やレースファンの心の中で彼は生き続けている。