横山光輝三国志 諸葛亮 孔明 10
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蜀の各部隊は険路を越えて続々て漢中へ引き揚げてきた。どの部隊も困難と苦戦を物語るように疲れ果てていた。
諸葛亮「それにしてもあの威風堂々の進軍がたった一つのほころびでこんな大敗になってしまうとは……
惜しい男だが馬謖の責任は問わずばなるまい」
気にしていた趙雲は一兵も失わず、魏軍の追撃をかわし戻ってきた!
流石、趙雲!
諸葛亮「将軍、そなたに黄金五千斤絹一万疋を賞として贈るぞ」
趙雲「三軍がこうして引き揚げてまいりましては誰にも功はありませぬ。それなのにそれがしだけが恩賞を賜りましては丞相の賞罰あきらかならずとそしられる因ともなりましょう。それよりもこれからはやがて冬、何かと物不自由になりまする。これを諸軍勢に少しずつでも分かち与えれば、諸軍の心も温まりましょう」
諸葛亮「そうか。そなたがそういうならばそうしよう、将軍ゆっくりとくつろがれよ」
と同時に馬謖の罪もおだやかな処分ではすまされないと感じた。
それから数日後、軍法会議が開かれた。
王平「はい。街亭の布陣には丞相より道筋の要をしっかり押さえよと命じられました。ところが現地に着くと馬謖は何を思ったのか、山上に陣取ると言い張りました。それがしが反対いたしましたところ、兵法を知らぬ者と笑われ止む無くそれがしの兵だけで山麓の西十里に陣取ったのでございます。それから丞相に布陣の絵図を送ったのでございます。そこへ魏の大軍が雲霞のごとく攻め入りました。5千の勢ではとても歯が立ちませぬ、そのうえ山上の本軍は水を断たれ、全く士気を失い、続々と降伏するありさま….」
王平「街亭は全作戦地域の急所。一旦ここが破れますと、魏延 高翔その他の助けもほとんどどうすることもできませぬ。以後の惨たんなるありさまは諸将よりお聞きくださいませ。それがしは丞相のお指図通り最善を尽くしたつもりでございます」
諸葛亮「よし、退がってよい」
将「馬謖 入られい」
諸葛亮「馬謖 そなたは子供の頃より兵書を読み、よく戦策を暗誦(あんしょう)し、わしもそなたならやり通してくれると期待して街亭に出陣させた。わしは街亭は我が軍の喉元にもあたる重要な地であることを教え、もし守りおおせたら長安攻略の最大の手柄とまで言ったはずじゃ」
諸葛亮「ところがそなたはわしの命に逆らい取り返しのつかぬ失敗をしでかしてしまった」
馬謖「面目次第もありませぬ」
諸葛亮「そなたも少しは成人していると思うたが案外なる たわけ者であったわ」
馬謖「王平は何と申したか知りませんが、あれほどの魏の大軍が来たのでは誰があたっても防ぐことはできませぬ」
諸葛亮「王平は5千の兵をもって整々と乱れずよく戦った、それゆえ敵は王平に伏兵がいるか それとも詭策(きさく)があるのではないかとあえて近づかなかったという。それにひきかえ汝は王平の注意も聞かず、山上に陣取る愚をおかしているではないか」
馬謖「しかし兵法に『高きによって低きを視るは勢いすでに破竹…』とありまする」
諸葛亮「なんたる愚……生兵法とはまさにそなたのためにある言葉だ…
馬謖よ、功を焦り蜀全軍を退却のやむにいたらしめた。罪は重い……
そなたは……
そなたは死刑じゃ」
馬謖「死罪は覚悟しておりました。私をお斬りになることで、大義を正すことになるならば、謖は死すともお恨みはいたしませぬ」
諸葛亮「馬謖 お前の遺族は死後も孔明が面倒を見る。すみやかに軍法を正せ!この者を曳き出し、軍門の外において斬れっ!」
蒋琬(しょうえん)「丞相 お待ちくだされ。この国家多難の時に 何故馬謖のような有能な士をお斬りにらなりまする。国家の損失ではありませぬか」
諸葛亮「蒋琬 君のごとき人物がそのようなことを質問するか。昔 孫武がよく天下に勝をせいしたゆえんは軍法の厳正であったためである。四方の国が争っておる時に軍律をおろそかにして敵を破ることができようか」
蒋琬「でも馬謖は惜しい。実に惜しい。そうお思いになりませぬか」
諸葛亮「その私情こそ判断を誤らせる一番の罪じゃ。馬謖の犯した罪はむしろそれより軽い……惜しむべきほどの者なればこそ、なお断じて斬って軍法を正せねばならぬのじゃ」
諸葛亮「本当の罪は余の不明にある」
その首は陣中にさらされた。
その後 首は糸をもって胴に縫い付けられ棺にそなえてあつく葬られた。かつその遺族は長く孔明の保護によって、不自由なき生活を約束された。
「泣いて馬謖を斬る」
馬謖は大罪を犯したが、孔明晩年の蜀は常に人材不足により泣かされた。
馬謖は蜀にあって有能な士。
蒋琬が言うのも もっともな話である。
だから馬謖に街亭を任すまで至ったのはその象徴だ、人材不足なのである。
いかに天才孔明でも、優秀な部下をこの世に生み出すことはできない。
馬謖の悲劇は、三国志が生身の「人」の物語であることを実感させる。
ちなみに馬謖を斬って涙した孔明は馬謖に対して泣いたのではなく、先帝劉備の遺言に添えなかった自らの不明のため、それが現実となってしまったからである。
また「正史」には、馬謖の死について、誅殺説(ちゅうさつせつ)、逃亡説、獄中死亡説と3通りの記述があり、真相は謎である。
また馬謖は典型的な文官将軍であり、実践の戦争の経験が不足しており、頭が良くて軍事理論が好きな人物であり、諸葛亮もその傾向があったのではないか?
戦いに明け暮れ、危ない戦争をやっていれば、勢いや考え方は実践的になる。
そうでない場合は机上の空論、ひとりよがり、あるいは遊戯的になってしまう。
ちなみに街亭で戦った魏の将 張郃、彼は兵隊からの叩き上げである。
だから若輩者馬謖などお手の物であったのだ。
その点劉備は実戦を長くしてきた戦争屋だ。
戦いのプロであった。
「しかれども連年衆を動かして、いまだ功を成すこと能わず。けだし応変の将略は、その長ずる所にあらざるか」
なるほどと頷ける話であった。
続く…