kemoxxxxxの日記

kemo cityからの脱出

横山三国志 諸葛亮 孔明 3

劉備が死んだ後諸葛亮は初めて軍権を握り、直接軍隊を指揮することになる。
最大かつ最終目標は魏を討つことである。
魏を討つには北へゆかなければならぬが
諸葛亮はその前に、反対方向の南を討伐した。

南は異民族の地である。これは、一つには総力を挙げて北へ向かうには後方の脅威を解消しておく必要があったこと。
また一つには、軍資の調達である。
諸葛亮らの蜀政権はよそ者政権だからあまり地元でしぼりあげるわけにはゆかず、南方の小国で収奪したのだろう。

横山三国志では南征について、詳しく描かれている。
まず南蛮王の孟獲が十万の軍勢をもって益州南方に迫った。
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孔明はこの一報を聞き兵を起こし、帝に出兵の許可を得る。
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孔明の行動は素早かった。直ちに五十万の兵を集め益州南部へ向かう。

雍闓は朱襃、高定、鄂煥を引き連れ反乱を起こし孔明と戦うが、孔明の離間の策により高定の将、鄂煥により雍闓は殺される。
高定は雍闓の首を持って孔明に降ろうとするが、さらに疑う孔明の策により高定は朱襃の首も取ってきて、益州の太守に任じられる。

孔明は軍勢を引き連れ永昌へ向かう。
反乱に応じなかった王伉に会う為だった。
そこで孟獲から城を守るために王伉を助けた呂凱孔明に「南蛮指掌図」を差し出し、南蛮の地への案内役になる。

それからまもなく孔明は南蛮の地へ進軍する。
野営をしている際に馬謖が訪れる。
兄の馬良が亡くなったのを告げに来た。
孔明は惜しい人物をなくしたと嘆く。
この頃馬謖は蜀において秀才ぶりをうたわれていた。

孔明が進軍してきたのを知った孟獲は三洞の元帥を呼ぶ。第一洞元帥金環三結、同じく董荼奴、同じく何会喃らと孔明に戦いを挑む。
趙雲魏延は軍律に違反して先立って敵の陣へ攻める。手柄を立てれば許されるからだ。
金環三結は趙雲が討ち取り、董荼奴と阿会喃は孔明が捕らえていた。
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孔明は董荼奴と阿会喃を放つ。
両元帥は涙を流して喜び何度も礼を言って帰っていった。

それを知った孟獲は出陣する。
しかし孟獲らは孔明の知略で皆討たれ、または降参し孟獲は捕らえられる。
しかし心から屈服させたい孔明孟獲を解き放つ。

孟獲は董荼奴と阿会喃をまた呼び出し、二人はしぶしぶ参加する。

孔明軍は南蛮軍とにらみあい半月以上になったところへ馬岱が兵三千と薬、食料を運んで来た。
そして孔明馬岱に作戦の指示を与える。
馬岱軍は南蛮軍の糧道を抑え、食料を奪った。
孟獲は忙牙長を出撃させ、戦うも馬岱はあっさり一太刀で討ち取る。
孟獲はさらに董荼奴へ戦いに出したが、孔明の恩義を忘れられず戦わずして陣へ戻る。
怒った孟獲は百杖の罰に処する。
董荼奴は部下と酔って寝ていた孟獲を生け捕り、孔明の元へ向かいまたもや孟獲は捕らえられる。
しかし孔明は再び孟獲を解き放つ。

戻った孟獲は董荼奴と阿会喃を裏切り者として殺す。そして懲りない孟獲は弟孟優を孔明の元へ送り、孔明を殺そうとしたが全て読まれていて、兄弟共に捕らえられる。
そして、三たび弟と共に孟獲を解き放つ。

孟獲は現在の雲南省の境からミャンマーインドシナ半島辺りの諸洞に便りを送り、諸洞の蛮王は続々と孟獲の元に馳せ参じた。
しかし孔明の策には敵わず皆再び敗れ、孟獲はまたも捕らえられる。
それでも懲りず、孔明は四たび孟獲を解き放つ。

今度は朶思王に頼るも、味方だった楊鋒に裏切られ捕らえられる。
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そして孔明は五度、孟獲を解き放つ。
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孟獲も、とにかくしつこい!
しかし諸葛亮もしつこくはないか?
私が南征に参加している将ならば、ちょっと孔明のやり方に不信感を持つ。

次は現在のベトナムミャンマー、タイ辺りにいる木鹿王に頼る。
孟獲の不甲斐なさから現れた、妻祝融夫人が趙雲魏延に戦いを挑む。
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この祝融夫人、女がてらに趙雲魏延に互角の戦いをする。
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しかし孔明の作戦にハマり木鹿王も討たれ、孟獲祝融夫人は捕らえられる。
孔明は二人とも解き放つ。六度目。

次は烏戈国の兀突骨に頼り、孔明はまた一計を図り各将軍に指示をだす。
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孟獲兀突骨は戦いを挑むも孔明の計により盤蛇谷に誘い込まれ、一族もろとも焼き殺される。

そして七たび捕らえられた孟獲は打ち首を覚悟する。
しかし孔明は解き放つと言う。
さすがに孟獲は心から降参する。
「丞相に会わせてくれ!」と。
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孟獲「命を助けられること七たび、いかに野蛮人といえどもこれで大恩を感じぬ者はおりませぬ。悪かった許されい。」

孔明「以前の通り南蛮国王として蛮士の民を愛し、わしに代わって王化に勤めてくれ。」
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孟獲孔明に泣きながら心服した。
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そして南蛮平定は収まり成都へ凱旋した。
結局、孟獲孔明に七たび捕らえ、七たび解き放たれた。
それは南蛮の王として、孟獲しか治める人物はいないと判断したからか?
孟獲という人物も気になってくる。むむむ。

私は魏延が好きなので、魏延孔明のやり方に不信感を持つのは当たり前だと個人的に思っております。
ただ孔明お気に入りの将は上手く使われてますが、馬謖を目にかけていた時点で孔明は人を見る目は無かったと思うんです。

その点、先帝(劉備)は見る目がありました。

諸葛亮伝」に「健興三年春、亮は軍勢を率いて南征し、その秋ことごとく平定した。軍資の出所が確保され、国家財政が豊かになった」とある。

その後軍の整備、訓練に一年余を費やし、いよいよ二代皇帝劉禅に『出師表』(すいしのひょう)をたてまっつて大軍が成都を出発したのが建興五年春である。
劉禅が死んでから丁度四年目で、この四年が北征の準備期間だったということになる。

漢中まで進んでここで一年腰を据えている。勇んで国を出て来たにしては少しのんびりしているが、これは新城の孟達と連絡を取り、魏に対する叛乱を促していたのであろう。
孟達諸葛亮に呼応して反旗を翻したが、たちまち司馬懿に制圧された。
それが健興六年の正月、その後すぐ諸葛亮は漢中から出動している。

諸葛亮は前後数回北征に出ているが、万全の準備もして意気込みも高かったのはやはりこの第一回である。

ところがどこへ行ったかというと、祁山へ行った。
方角が逆である。

これは以前魏延のブログで書かせていただいた問題である。
これが僕にはどうしても解せない。

いよいよ第一回の北伐へ…。

続く…。

  • 参考・引用した文庫

三国志人物縦横談

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三国志全30巻漫画文庫 (潮漫画文庫)

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