kemoxxxxxの日記

kemo cityからの脱出と幾何学模様の迷路

横山三国志 諸葛亮 孔明 2

さて、建安十九年に劉備成都を取って益州牧になると諸葛亮はその軍師将軍になったとある。

諸葛亮は軍の総帥なのかな?といっても実際の軍の総帥は言うまでもなく劉備である。軍権は全て劉備にある。

益州を落とす際に龐統が軍師となり、劉備のお供をする。
一線級の諸葛亮成都関羽張飛趙雲荊州の留守番をさせられていた。

龐統劉備に蜀を劉備にとらせる為に色々進言した。

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劉備が手をこまねいている時まず、
龐統は三つの策を提言する。
第一、このまま成都に攻め入り成都をとること。
第二、荊州に帰ると陣中にふれ、兵をまとめその時蜀の将二人を殺して涪水関を占領してしまうこと。
第三、兵を引いて荊州の守りを固めること。しかしこれは下策でございまする。

それを聞き劉備は第二の策を選ぶ。
上策は第一の策である。
劉備はいつも遠回りの策をとる。

益州進撃は順調に進んでいた。
その時荊州から孔明使者として馬良がやってきた(馬良ぼくの好きな人物です)。

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その時龐統は思う。
(我が君は軍師(諸葛亮)を心の底から信頼していなさる。この私はこれほど信頼されているのであろうか)と。

手紙を見た劉備は、孔明は天文を見て忠告してきてくれた「西方になお恒星輝き客星の光芒弱く今年はなお征軍に利あらず 大将の身には凶事の兆しすらありくれぐれも身命を慎みたまえ」とある、と龐統に言う。

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「どうであろう余も荊州へ一度立ち帰って、孔明と会った上でよく協議してみたいと思うのだが」

それを聞いた龐統は嫉妬に似た感情が起こった、そして孔明はこの龐統が蜀で大成功を収めしまいそうな形勢を見てひそかに妬んでいるのではないかと思った。
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そして龐統は言う、「今のお言葉納得できませぬ。ここまで兵を進めながら孔明の一片の書簡にお心を惑わされたまうなど何たることでございます。私も天文を心得てございます。確かに軍師の申される通りですが、拙者と読み方が違いまする」
劉備「読み方が違う?」
龐統「今年は皇叔にとって大吉ではありませぬが、さりとて悪年でもありませぬ。また恒星西にあることは皇叔が成都に入る兆しと読みました」
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それを聞き劉備は悩む。そして法正に秘密路の地図を見せられ、軍を二つに分け両方から進むことを決める。

龐統孔明に対する嫉妬から劉備に進言したのだが、龐統は焦っていたに違いない。孔明の言う通りに動いていれば、龐統も命を落とさずに済んだかも知れない。

そして翌日軍を二つに分け雒城に進もうとした。 そして…
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劉備は自分の白馬を龐統に乗らせる。

これが決定的になり落鳳波で張任劉備と勘違いされ、命を落とす。
龐統三十六歳であった。
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龐統が落鳳波で命を落とした時、劉備は落胆した。その後も龐統の名を思い出すたび涙したという。

対して孔明は確かに大スターであり天才ではあるが、軍を指揮するには下手だったのではないか?
というのが僕の見解。

龐統はその点では軍師としての能力は孔明より上回っていたと考える。
龐統が生きていればまた蜀の運命も変わったろうに。

諸葛亮が軍師になったというのは信じていません。
なぜかというと曹操の荀彧、孫権魯粛のように戦略の策定に参与し、劉備を補佐していたのかというと、どうもやはり僕が思う通り、正史ではそのようではないらしい。

横山三国志では孔明ありきの劉備として描いているが、実際劉備の存命中諸葛亮が軍事に関与した形跡はいっこうに見えないようです。

蜀の章武二年、劉備は東征の軍をおこし、翌年夷陵で陸遜に大敗した。

いわゆる関羽の弔い合戦である。

横山三国志では諸葛亮劉備に「今は大戦を起こす時期ではございませぬ」と劉備に呉へ軍をおこすのを止めている。
趙雲も進言したのに、である。
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その言葉に一旦東征の考えをやめるが、張飛劉備に対して強く言ったもんだから、劉備は呉への侵攻を決めてしまった。
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おまけに一番やる気を見せていた張飛は東征の軍に参加する前に、張飛の根っからの酒癖の悪さと部下への拷問と暴力により、部下二人に寝首をかかれ死んでしまう。
横山三国志では劉備張飛の死に涙した。
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が、史実ではそれを聞いた劉備は「ああ、張飛は死んだか」と言ったらしい。

蜀軍が東征で勝ちに勝ち進み連戦連勝時、孫権は呉が滅ぶと慌て、劉備に和睦の使者を送る。

馬良は「荊州を返し、孫夫人を送り届けて末長くよしみを結び共に魏を滅ぼし天下を分け合いたい」と劉備使者からの報告をする。

ところが劉備は、「馬良それはならぬぞ」と言い、
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馬良は、
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と進言する。
馬良の進言を聞かず、劉備は呉を討つ気は変わらないことを馬良に告げる。
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馬良は「以前の陛下に比べ、この頃の陛下は少し強気過ぎる…戦は勝ちすぎてはならぬ、勝ちすぎると恨みが残る。ほどほどに勝って従わせるのが最上なのだが」と呟いた。

劉備は桃園の誓いに拘り過ぎて、陸遜に敗れ大敗し白帝城に落ち延びた。

諸葛亮成都にて大敗の一報を聞いた時「法正が生きていれば帝を抑えて東征などさせなかったであろう。また行ったとしても、こんな酷い負け方はしないですんだろうに」と嘆いたと言ったみたいですね。

と、いうことは正史では諸葛亮自身は初めから、東征の軍を起こす時に劉備に相談されていなかったということなんだろう。
まして将軍として遠征に加わる可能性など全然なかったようですね。

つまり劉備諸葛亮を、参謀としても指揮官としても使う気は毛頭なかったみたいです。
劉備は、戦争だけは若い頃からやってきたプロである。その劉備の目から見て諸葛亮は、もちろん抜群に優秀な人物には間違いないが、戦争にはあまり向いていないと見えたのだろう。

諸葛亮伝」に「先主(劉備)が外征する時、亮は常に成都に鎮守し、食を足らし、兵を足らした」とある。軍国の経済、軍需を担当していたのである。

劉備の存命中、諸葛亮は内政を任されていた。そして行政の最高責任者としては珍しく、酷吏型、法家型、つまりは正義派官僚であったようです。

陳寿は、「科教厳明、賞罰必信、悪として懲らさざる無く、善として顕さざる無し」と言い、「誠心を開き、公道を布き、忠を尽くして時に益する者は讎と雖も必ず賞し、法を犯し怠慢なる者は親と雖も必ず罰する」と言っている。

つまり、きちんと法令を定め、定めた法令をきちんと適用し、それにてらして賞するべき者は賞し、罰すべき者は罰した、というのである。

正義官僚は評判が悪い。大概手酷い報復を受ける。「史記」の「酷吏伝」には、正義と厳正を貫いて無残な最期を遂げた多くの官僚たちの伝が集められている。

諸葛亮は丞相の地位にあって正義派を張ったのだから珍しいとある。
「蜀記」にはこう書いてある。

- 前政権以来の官僚の代表格である法正が諸葛亮に対して「あなたがたは暴力でこの国を取り、政治に暖かみがない。よそ者なんだからもう少しへりくだるべきだ。刑罰と禁制をゆるめていただきたい」と諫言した。

それに対して諸葛亮は、劉璋政権時代の蜀は君臣とも馴れ合い主義で厳粛さがなかったから駄目だったのだ。
そしてこう言った。
「自分は今法令をもって威嚇をくわえる。法令が行われれば人々は知遇を知る。また爵位をもって身分を明確にする。身分が与えられれば栄誉を知る。知遇と栄誉が整然とすれば上下の折目が正される。為政の根本がそこで初めて確立する。」

諸葛亮が信賞必罰の厳正主義で官僚に臨んだこと、それに対しては諸葛亮を支持する人の間にも異論がないではなかったこと、しかし諸葛亮はよそ者政権だから厳しさが必要なのだ、と方針を変えなかったことは事実のようだ。

それで官僚層の支持を失って失脚することもなかったのは、陳寿が言うように、その厳しさが公平に行われていて恣意的ではなかったこと、自らに対しても厳しく、権力を用いて私利私慾を図るような人でないことが誰の目にも明らかであったことによるのであろう。と。

しかしとにかく諸葛亮は、親しまれ、なつかれ、安心される、いわゆる清濁併せ飲む式の政治家ではなくて、怖くて近寄りがたく、誰も文句がつけようのない型の政治家だったようでした。

続く…。

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