横山三国志 諸葛亮 孔明 2
さて、建安十九年に劉備が成都を取って益州牧になると諸葛亮はその軍師将軍になったとある。
劉備が手をこまねいている時まず、
龐統は三つの策を提言する。
第二、荊州に帰ると陣中にふれ、兵をまとめその時蜀の将二人を殺して涪水関を占領してしまうこと。
第三、兵を引いて荊州の守りを固めること。しかしこれは下策でございまする。
それを聞き劉備は第二の策を選ぶ。
上策は第一の策である。
劉備はいつも遠回りの策をとる。
益州進撃は順調に進んでいた。
その時龐統は思う。
(我が君は軍師(諸葛亮)を心の底から信頼していなさる。この私はこれほど信頼されているのであろうか)と。
そして龐統は言う、「今のお言葉納得できませぬ。ここまで兵を進めながら孔明の一片の書簡にお心を惑わされたまうなど何たることでございます。私も天文を心得てございます。確かに軍師の申される通りですが、拙者と読み方が違いまする」
劉備「読み方が違う?」
それを聞き劉備は悩む。そして法正に秘密路の地図を見せられ、軍を二つに分け両方から進むことを決める。
そして翌日軍を二つに分け雒城に進もうとした。 そして…
龐統三十六歳であった。
対して孔明は確かに大スターであり天才ではあるが、軍を指揮するには下手だったのではないか?
というのが僕の見解。
龐統が生きていればまた蜀の運命も変わったろうに。
諸葛亮が軍師になったというのは信じていません。
いわゆる関羽の弔い合戦である。
趙雲も進言したのに、である。
馬良は、
と進言する。
馬良は「以前の陛下に比べ、この頃の陛下は少し強気過ぎる…戦は勝ちすぎてはならぬ、勝ちすぎると恨みが残る。ほどほどに勝って従わせるのが最上なのだが」と呟いた。
まして将軍として遠征に加わる可能性など全然なかったようですね。
陳寿は、「科教厳明、賞罰必信、悪として懲らさざる無く、善として顕さざる無し」と言い、「誠心を開き、公道を布き、忠を尽くして時に益する者は讎と雖も必ず賞し、法を犯し怠慢なる者は親と雖も必ず罰する」と言っている。
つまり、きちんと法令を定め、定めた法令をきちんと適用し、それにてらして賞するべき者は賞し、罰すべき者は罰した、というのである。
正義官僚は評判が悪い。大概手酷い報復を受ける。「史記」の「酷吏伝」には、正義と厳正を貫いて無残な最期を遂げた多くの官僚たちの伝が集められている。
諸葛亮は丞相の地位にあって正義派を張ったのだから珍しいとある。
「蜀記」にはこう書いてある。
- 前政権以来の官僚の代表格である法正が諸葛亮に対して「あなたがたは暴力でこの国を取り、政治に暖かみがない。よそ者なんだからもう少しへりくだるべきだ。刑罰と禁制をゆるめていただきたい」と諫言した。
そしてこう言った。
「自分は今法令をもって威嚇をくわえる。法令が行われれば人々は知遇を知る。また爵位をもって身分を明確にする。身分が与えられれば栄誉を知る。知遇と栄誉が整然とすれば上下の折目が正される。為政の根本がそこで初めて確立する。」
諸葛亮が信賞必罰の厳正主義で官僚に臨んだこと、それに対しては諸葛亮を支持する人の間にも異論がないではなかったこと、しかし諸葛亮はよそ者政権だから厳しさが必要なのだ、と方針を変えなかったことは事実のようだ。
それで官僚層の支持を失って失脚することもなかったのは、陳寿が言うように、その厳しさが公平に行われていて恣意的ではなかったこと、自らに対しても厳しく、権力を用いて私利私慾を図るような人でないことが誰の目にも明らかであったことによるのであろう。と。
しかしとにかく諸葛亮は、親しまれ、なつかれ、安心される、いわゆる清濁併せ飲む式の政治家ではなくて、怖くて近寄りがたく、誰も文句がつけようのない型の政治家だったようでした。
続く…。
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